ケプラー(Johannes Kepler 1571年〜1630年)
ケプラーは律儀な人であった。そしてすべてに調和を求めたが、ケプラーの生きた時代はそれを許さなかった。まじめすぎて、どこか哀しいケプラーの一生であった。
ケプラーは天文学・数学上の巨人である。だが、お墓の場所さえ明らかではない。伝記も本によってかなり違う。ようするにその生涯はあまりよくわかっていない。私の世代では、カール・セーガンのTV番組「コスモス」(1980年秋)の中の「宇宙の調和」で描かれたケプラーの生涯が記憶に強く残っているだろう(「コスモス」は単行本にもなっている)。
ケプラー http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/PictDisplay/Kepler.html |
チコ・ブラーエ http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/PictDisplay/Brahe.html |
ケプラーは1571年12月27日に南ドイツのヴァイル・デア・シュタットで生まれた。未熟児だったという。当時、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れていた。ヴァイル・デア・シュタットの住民の多くはカトリックであったが、ケプラー家はプロテスタントであった。でも町にプロテスタントの教会がなかったため、ケプラーはカトリック教会で洗礼を受けたという。これを発端に、彼の一生は宗教に振り回されたものとなった。
祖父はこの町の市長までしたという名門だったケプラー家だったが、父は身を持ち崩し傭兵として暮らしていた。母は居酒屋をやっていた。二人して家を空けることもあり、父も母もあまり彼を熱心に育てなかったという。父は1588年(ケプラー17歳)のときを最後に家を出たままになった。また、ケプラーは子供のころの病気がもとで、目を悪くしたという(当時の天文学者としては致命的)。
※ 一説:居酒屋の仕事を手伝わせようとした姉の夫から姉がかばった。
他の説:ケプラーの兄弟は弟二人、妹一人。
ケプラーの少年時代の思い出は、母に連れられて彗星を見たこと(6歳のころ)、父に連れられて月食を見たこと(9歳のころ)だという。これが彼の天文学に対する興味を目覚めさせたらしい。
ケプラーの才能と信仰心を認めた初等学校の先生の薦めもあり、ケプラーはルター派の牧師になるための上級学校に進む。学費無料の全寮制の学校での生活は聖書の勉強がメインで、彼にとってはあまりおもしろいものではなかったらしい。だだ、ユークリッド幾何学には非常な興味を持ったようだ。
その後さらに、チュービンゲン大学神学部に進学する。そこで、コペルニクスの地動説を知った。
大学を卒業したケプラーは牧師にはならず、グラーツのギナジウム(中学から高校程度?)の数学&天文学の教員になる。しかし、授業は生徒の理解を超えたものだったらしい。なにしろ授業中にもかかわらず、フツフツと沸いてくる自分のアイデアの検討を始めてしまう有様なのだ。だいたい、数学を理解できない生徒がいるなどということ自体、ケプラーに理解できなかっただろう。ここでも、頭のいい人が必ずしもいい教員でない例を見ることができる。
ケプラーが赴任したグラーツの町は宗教的な緊張状態にあった。ケプラーが作った1595年の占星暦は、寒波の襲来とウィーン南部へのトルコ軍の襲来を当てたので評判となった。著書「宇宙の神秘」では、惑星が5つしかないのは(当時は水星、金星、火星、木星、土星のの5つのみが知られていた、地球はもちろん惑星とは認識されていなかった)、正多面体が5つしかない(正四面体、正六面体(立方体)、正八面体、正十二面体、正二十面体)からだというアイデアが述べられている。つまり、各惑星の軌道はそれぞれ内接するそれらの正多面体に支えられているというものである。彼は一生このアイデアのこだわった(が、もちろん正多面体と惑星の軌道は無関係である)。
ケプラーが考えた惑星の軌道を支える正多面体
http://www.nationmaster.com/encyclopedia/Johannes-Kepler
1597年4月、ケプラーは結婚歴もあり7歳の連れ子(レギーナ)もいる、富裕な粉ひき工場主の娘バーバラと結婚する。バーバラとの間の二人の子は、二人とも生後まもなく死んだという。ケプラーはレギーナを可愛がった。しかし、妻は病気がちで、おまけに給料の安いケプラーをさげすんだという。
※ 一説:ケプラーは結婚に際し、女性を評価する「理論」を考え、その理論に基づき最高点の女性(バーバラ)と結婚したという。だが彼女は実際には最低点の女性だった。
このころ、グラーツのプロテスタントは弾圧を受ける。ケプラーも一時町から避難したりしている。こうした時期に、ケプラーはチコ・ブラーエの招きを受ける。ケプラーはこの招待を受けることにする(1600年、日本では関ヶ原の合戦が起きた年)
チコは自分の精密で膨大な観測資料をもとに、新しい太陽系の理論の構築を試みていて、優秀な助手が欲しかったのだ。だが、呼んでみたケプラーは予想以上の頭の良さであった。自分の資料をケプラーに全部見せると、その成果を全部とられてしまうと恐れ、チコは観測資料をなかなか見せなかった。
ケプラーは友人に対し、「チコは、たまたま食事での語らいのときに、今日はある惑星の遠日点について、次の日は別の惑星の交点についてという具合に時たま漏らしてくれる以外には、彼の持つ経験を分かちもつ機会を与えてくれません。」「チコは きわめてケチで、観測結果を教えてくれない。」と愚痴をこぼしている。(16世紀文化革命、山本義隆、みすず書房、2007年4月、p.670)
そのほか、二人の性格の違いもある。謹厳実直で貧乏なケプラーに対し、宴会好きな大金持ちチコ、二人はしょっちゅうケンカと和解を繰り返していたという。チコは当時を代表する観測家、ケプラーは当時を代表する理論家、その対立という見方もできる。
しかし、チコはやがて死んでしまう(1601年)。チコの精密で膨大な観測資料はケプラーのものになった。
ケプラーはとくに火星を研究した。チコも火星の軌道は円に当てはめにくいことに気がついていた。長年の研究の結果、ケプラーはある日「正解」を出したと思った。だが、その軌道は最大で角度で8'(分、<1'>は1°の1/60の大きさ)の違いを生じた。ケプラーにはこの違いを無視できなかった。そうして楕円を当てはめてみたところぴったりなことに気がついた。ケプラーの第1法則(楕円軌道の法則)の発見である。1605年のことであった。ケプラーは同時に第2法則(面積速度一定の法則)も発見している。もっとも、これらの書いた「新天文学」が実際に出版されたのは、資金難やチコの遺族の妨害のため1609年になっていた。
※ ケプラーの法則の解説はこちらを参照。
しかし、ケプラーに不幸が見舞う。政情不安になったプラハに天然痘がはやり、妻と長男を失う(1610年)。おまけに皇帝が変わってしまったため、以後皇帝付数学者としての給料は満足に支払われなくなる。
ケプラーはリンツの州数学監としてリンツに赴任する(1612年)。この町でも、また宗教の面でケプラーは苦労する。ケプラーは新教徒ではあるが、厳密にルター派の教義すべてを納得していたわけではないらしい。ケプラーはこの町でスザンナ・ロイティンガーという女性と再婚する。最低点の女性と結婚したというのはこのときをさしているという説もある。ケプラーはこの女性との間に6人の子供をもうける(8人という説もある、3人は幼くして死ぬ)。このころ、町でワインを買おうとして、酒樽の中のワインの量のあまりにいい加減な量り方を知り、「ワイン酒樽の容積」(1615年)という本も書いている。これは今の積分につながる内容でもある。
このころケプラーは別な苦労もすることになる。彼の母が、いざこざに巻き込まれて魔女として告発されてしまったのだ。薬草も売っていたし、ケンカ好きでもあったので、まわりの人たちに嫌われてしまったようだ。1615年、70歳の彼女は逮捕されてしまう。ケプラーは様々な運動を行って、母の救出を試みる。そのせいかどうかはわからないが、1621年母は釈放される。最後の拷問器具を見せつけられながらの尋問でも、魔女であると自白しなかったという。当時、魔女として逮捕されて、無実で釈放されるのは異例中の異例のことであった。もっとも釈放されて半年で母は死んでしまう。おまけにこの間、継娘レギーナや娘一人を病気で失っている。
こうした間もケプラーは研究を続け、1618年ケプラーの第三法則(調和の法則)を発見している(それがかかれた「世界の和声論」は1619年or1620年の出版)。惑星の公転速度が太陽から遠くなるほど遅い、しかもこのケプラーの第三法則に従って遅くなるということから、ケプラーは惑星の運動は太陽が惑星に力を及ぼし、それが惑星を動かしていると考えた。ケプラーは、ガリレオ(イタリア、1564年〜1642年)が発見した木星の衛星も、この法則に従ったいることを確かめた。そして実際に、この第三法則を一つの大きな手がかりとして、ニュートンは万有引力の法則を発見する。1627年には懸案の「惑星運行表」(ルドルフ表)も完成する。
しかしリンツでも宗教的迫害が強くなり、ケプラー一家は皇帝軍総司令官ヴァレンシュタインの招きで、ウルム(1627年)を経てサガンに移住する(1628年、ケプラー57歳)。ヴァレンシュタインはケプラーを占星術者として期待したようである。もっとも、このころは占星術と天文学は不可分のものであった。この時期、ケプラーは天体の位置の総合的データ集「(1621年から1639年までの)天体位置暦」(1630年)も完成している。また未刊に終わったが、世界最初のSF小説ともいうべき「夢」も書いている。そこには月に旅行して、月から見下ろした(見上げた)地球の姿も描かれている。アイデアは大学時代のものだ(指導教官に話したが理解してもらえなかった)。ケプラーのこのために、彼の母が魔女の嫌疑をかけられたと思いこんでしまう。
このころ、天体暦作成のための計算助手として雇ったバーチェと娘スザンナが結婚したり、二人に子供ができたり(ケプラーの孫)と、比較的平和な生活が戻った。しかし、これも長くは続かない。ヴァレンシュタインが失脚してしまったのだ。
ケプラーは支払われない皇帝付数学者としての給料を求めてプラハに向かった。星占いで死期を悟ったケプラーは大変に落ち込んでいたという。実際、途中の宿でケプラーは死んでしまうのだ(1630年、ケプラー59歳)。
※ 一説:リンツでの未払いの債権を求めてリンツに向かった。熱病で死んだという。盛大な葬式が営まれたらしい。
もう一説では、お金のないケプラーは旅の途中に満足な食事をとれず、衰弱死したという。ようやく持っていた本でケプラーと知れたという。こちらの方が、謹厳実直、まじめ一筋、生活の苦労がつね付きまっとったケプラーらしい死に方だったかもしれない。
ケプラーのお墓は戦乱の中で破壊され、所在が失われたままになって今日に至っている。
ケプラーの興味は幅広く、上に上げた天文学、数学、そしてSF小説ばかりか、光学、音楽(惑星の運動の背後には幾何学的・音楽的調和があるというケプラーの信念がある。彼は一生この幻影を追い求める)、雪や花の形の考察なども行っている。
ケプラーには疑い深く、また怒りっぽいところもあったようだ。また自分の才能に対する自信と、些細なことでくよくよするという側面もあったという。世俗的な成功、家族との平和な暮らしが得られなかったことは確かなようだ。
この項の参考図書
ケプラーと世界の調和 渡辺正雄編著 共立出版 1991年2月
異説数学者列伝 森毅 蒼樹書房 1973年5月
磁力と重力の発見 山本義隆 みすず書房 2003年5月
魔女狩り 森島恒雄 岩波新書 1970年2月
ケプラーの夢 渡辺正雄・榎本恵美子訳 講談社 昭和47年(1972年)4月
ケプラー疑惑 ジョシュア&アン-リー・ギルダー 山越幸江訳 地人書館 2006年6月
16世紀文化革命 山本義隆 みすず書房 2007年4月
コペルニクス:地球が宇宙の中心で、太陽や惑星、恒星のすべてが地球のまわりを回っているという考えを天動説という。これを集大成したのは、古代ギリシャの学者プトレマイオス(100年?〜170年?)である。コペルニクス(ポーランド、1473年〜1543年)はこれに疑問を持った。そして、古代ギリシャのアリスタルコスが、地球の方が太陽のまわりを回っているという考えを持っていたこと、そのように考えると確かに惑星の運動がうまく説明できることを知った。そして「天体の回転」(1530年、出版は1543年)で、地球は太陽のまわりを回る一つの惑星であるという考え、すなわち地動説を唱えた。
コペルニクス:http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Copernicus.html
アリスタルコス:アリスタルコス(紀元前310年?〜紀元前230年?)は古代ギリシャの人である。彼は半月(上弦の月、下弦の月)のときに、地球−月-太陽が直角になることを利用して(すなわち地球と月の距離を基線として)、そのとき月と太陽がなす角度を87°(ほんとうは89.85°)と測定した。直角三角形の各辺の長さの比は、直角三角形の大きさにかかわらず一定である。だからこの比の値から、地球−太陽の距離は地球−月の距離の20倍程度であると見積もった(実際は約390倍)。
そして、月食(月食は地球の影に月が入る現象であることを知っていた)を利用して、月と地球のの大きさの比を求め、月は地球の約1/2〜1/3とした(実際は1/4)。太陽と月は見かけの大きさ(視半径)がほぼ同じなので太陽は月の約20倍〜30倍の大きさとなる。さらにアリスタルコスに従えば、太陽は地球の約7倍〜10倍の大きさということになる(本当は地球の約109倍)。
アリスタルコスは、このような巨大な太陽の方が地球のまわりを回っているのはおかしい、地球の方が太陽のまわりを回っていると考えた。だが、それ以上の精巧な太陽系のモデルを作ることができず、理論的にプトレマイオスの天動説に負けてしまう。こうして、ヨーロッパ社会からはアリスタルコスの説は忘れ去れていく。しかしルネッサンスの時期、アラビア経由でアリスタルコスの考えも再輸入され、コペルニクスの知るところとなった。
チコ・ブラーエ:チコ・ブラーエ(Tycho Brahe、1546年〜1601年)はデンマークの貴族であった。1560年の日食がきっかけで天文学に興味を持ち、星の観測に熱中した。彼は望遠鏡が発目される以前の、最高の肉眼観測者である。平均で1分(角度)、最大で2秒(角度)の観測精度だったという。
チコはこれまでの星のデータには誤差が多いことを見つけ、また超新星の観測(1572年、宇宙は不変であるという当時の考えをくつがえした)で名をあげた。そして、デンマーク王フリードリヒ(フレデリク)2世からフベーン島(ベーン島)に天文台を建ててもらう(1576年、天文台といっても、地球儀と巨大な分度器、コンパスがあるのみ)。以後、そこで大勢の助手を雇い、観測を行った。天文台の名はウラニボリ(天の城)、そこが手狭になるとステンルンボリ(星の城)も建てる。ここで彗星の観測を行い、これが地球外のもの、月より遠いものであることを確認した(1577年)。
しかし、フリードリヒ2世の死後(1588年)、後継のクリスチャン4世と不仲になり、神聖ローマ帝国ルドルフ2世の招きでプラハに天文台を建設しようとした(1599年)。
チコは自分の観測精度に自信を持っていた。だから、もし地動説(地球が太陽のまわりを回っているという考え)が正しければ、年周視差が観測されるはずであるのにそれが観測できない、だから地動説はまちがっているとした。チコは地動説を頭から、あるいは昔のエライ人が天動説をいったからと否定したわけではなく、「科学的」に地動説を否定したのだ。本当は肉眼ではとても観測できないほど年周視差は小さい、それほど恒星までは遠いということであり、これは当時の人たちには思いもつかないことであった。
でも、単純に地球のまわりをすべての天体が回っているとするとどうしてもつじつまが合わないので、地球のまわりを太陽と月が回り、その太陽のまわりを惑星が回っているというモデルを考えた。ケプラーを呼んだのは、この自分の考えが正しいことの証明を手伝って貰うつもりだったのだ。チコはケプラーに、火星の軌道がもっとも円に当てはめにくいというヒントも与えている。
チコは無頼なところがあり、若いころ決闘で鼻を切り落とされ、以後金属の付鼻を付けていた。また、宴会好きであった。死因も宴会の席での飲食ともいわれている(注)。経済的には養父の莫大な遺産、デンマーク王フリードリヒ2世、そして神聖ローマ帝国ルドルフ2世の援助もあり、非常に恵まれていた(もっともルドルフ2世からの報酬は実際には支払われず、大勢の家族・助手をかかえたチコはだんだんお金には困ってきたともいう)。この点でも、一生お金で苦労した謹厳実直、でも貧乏なケプラーと対照的である。
死ぬ前、チコは「自分の生涯が無駄でなかったように」といったという。残念ながらチコの考えはまちがっていたが、その精密な観測データはケプラーに活用されたので、チコの生涯はもちろん無駄ではなかった。
注:著名人の宴席に招かれていたが、遠慮して尿意を我慢していたために、かえって排尿の機能が失われ、尿毒症の症状を呈して12日後に死んだという。だが、その症状は水銀中毒のそれに似ているらしい。実際、遺体に残っていた頭髪からは高濃度の水銀が検出された。カンペ(コペンハーゲン大学法医学研究所)の分析(1993年)では死の11日〜12日前に行った錬金術で使った水銀による中毒という判断、さらにバロン(スウェーデンのルンド大学)のPIXE法(粒子線励起X線分析法)によると(1996年)、死の13時間前(病床に伏せていたとき)大量の水銀を摂取したという。つまり、2度にわたって水銀をもられた可能性があるというのだ。上掲書「ケプラー疑惑」では、データ欲しさのあまりのケプラーの犯行を示唆している。
魔女裁判:当時、魔女として逮捕されれば、ほぼ確実に魔女裁判で魔女と認定された。マンガ的にその裁判のフローチャートをかくと下のようになる(下図は「詭弁論理学」(野崎昭弘、中公新書、昭和51年10月)に載っている図(これは安野光雅「わが友石頭計算器」(ダイヤモンド社)の図の引用)をもとにかいた)。なお、「わが友石頭計算器」は、「石頭コンピュータ」という新版になった。