第二部−2− 地球の科学

第7章 火山(6)

目次
11. 過去の大噴火
(1) 日本
a.富士山
b.浅間山
c.桜島
用語と補足説明
この章の参考になるサイト

11. 過去の大噴火

(1) 日本

a. 富士山

 1707年(宝永4年)、富士山の東南の山腹に新しく開いた宝永火口から大噴火を起こした。

 この噴火の約1か月半前に、日本の歴史上空前の大地震である宝永地震(M8.6)が起きている。この地震による被害は東海から九州までに及び、犠牲者は少なくとも2万ともいわれている。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に匹敵する超巨大地震だった。富士山の宝永の噴火はもしかすると、この地震でマグマだまりが揺すられて、そのためにマグマだまりで発泡が起きたのかもしれない。さらに、4年前には元禄地震(M7.9〜8.2、1923年の関東地震と同じく相模トラフ沿いの地震だが、それよりも規模が大きい)も起きていた。ただし、大地震と火山噴火の間に直接的な関係があるかはまだはっきりとはしていない。

 1707年12月16日、東南の宝永火口から大噴火が始まった。最初白っぽい軽石(デイサイト質、安山岩質、SiO2成分が比較的多い)、のちに黒っぽいスコリア(玄武岩質、SiO2成分が少ない)を放出している。これはマグマだまりの中でマグマの分化が起きていたことを示す。そして、それが噴火の際にかき混ぜられたか、新しいマグマが供給されたかを意味している。数日前から火山性地震という前兆があったともいわれるが、宝永地震の余震と区別がつかない。

マグマだまりの中でマグマの分化が進み、上澄みとなったデイサイト質のマグマがおもに噴き出てきた。 噴火の途中からマグマだまりが若返り、玄武岩質(苦鉄質)のものになった。

 火山灰は、ふもとの須走村では3mの厚さに達し、上空に噴き上げられたものは偏西風に乗って東に流れ、東京(江戸)でも数cm積もり、火山灰が降っている間は昼間でも行灯(あんどん)が必要だったといわれる。おもに火山灰となった噴出物の総量は8億m3といわれている(理科年表)。

 噴火そのものは2週間程度で終息したが、火山灰が厚く積もった富士山の東側では耕地が使えなくなり、飢饉を招いた。さらに、火山灰は酒匂川(さかわがわ)の河床を高くして、翌年の梅雨時の土石流を招いた。

 この噴火では溶岩の流出や火砕流の発生はなかった。

 富士山の宝永の大噴火に伴う災害については、読書のページの「富士山宝永大爆発」参照。


宝永火口(2008年1月6日撮影)
上:北東側の石割山からの富士山(2006年2月撮影)
下:宝永火口(2006年12月撮影)
宝永の噴火の際の火山灰が積もった厚さ:静岡大学小山氏
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/Fuji.html

  富士山は有史以来何回か噴火を繰り返している。その中でも大きな噴火は、800年〜802年の延暦噴火と、864年〜866年の貞観噴火であろう。延暦噴火ではこれまで足柄峠−御殿場を通っていた東海道は降灰で埋まり、新たに箱根を抜ける現在のルートになった。この噴火では北斜面の数カ所の噴火口から溶岩も流したようである。ただ、足柄路を通行不能にしたというイメージからか、大噴火と思われていたが、じつはそれほど大規模な噴火ではなかったようである。


足柄路と箱根路。足柄路は点線のように現国道246側(旧大山街道)から入っていたていたかもしれない。
google eartに加筆

 貞観の噴火は、宝永の噴火と並ぶ歴史時代(文書での記録がある時代)における富士山の最大噴火の一つである。この噴火は山頂噴火ではなく、西北斜面にいくつもの噴火口(側火山)が開き、そこから大量の溶岩が流れ出た。このときの最大噴火口が火砕丘の長尾山であり、このときの溶岩流を長尾丸尾(ながおまろび、“丸尾”はこの地域で比較的新しい溶岩流を指す言葉)という。噴火口全体では、「下り山火口」と「石塚火口」をむすぶ火口列と、「長尾山」と「氷穴火口列」をむすぶ2つの火口列が開き、2つの火口列をあわせた全体の長さは約5,700mにも達するという。その噴火で流れ出した溶岩は、それまで「せのうみ」という一つの大きな湖だったものを、現在の西湖、精進湖に分割した。この溶岩流の上に成長した森林が現在の青木ヶ原樹海である。

富士山の北斜面。陸域観測衛星「だいち」のデータを使いkashimir3Dで作図。
図では側火山の一つ大室山から溶岩が流れ出たように見えるが、大室山は古い側火山で、貞観の噴火の溶岩は2列の割れ目から大量の溶岩を流し、大室山はその溶岩流の中にある。
http://www.jaxa.jp/projects/sat/alos/index_j.html
静岡大学総合防災センター
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/sbosai/fuji/wakaru/003.html

 

 その後、1083年まで断続的に噴火したあとしばらく休止し、1435年に噴火、1511年の噴火以来また休止して、1707年の宝永の噴火に至る。そしてその後現在まで休止している。もちろん、今後いつかまた噴火することは確実である。

 富士山については読書のページの「活火山富士」「富士を知る」参照。また、富士登山の記録は山行のページの「富士山」「富士山2006」を参照。

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b.浅間山

 浅間山は1783年5×9日から活動を初め、8月4日、5日にクライマックスを迎えた。これが天明の大噴火である。

 8月4日の噴火では、ふもとの軽井沢(中山道の宿場町だった)にまだ冷え切らない火山弾が降り、地元住民がパニックに陥った。このとき、北麓では吾妻火砕流が発生している。

 ついで5日に大噴火を起こし、鎌原火砕流が発生した。この火砕流は二次的な土石流(岩なだれ)も起こして、北麓の鎌原村を壊滅させた。鎌原村の住民597名中466名が犠牲になった(生存者133名)。村の観音堂の階段50段のうち、35段までがこの火砕流によって埋まってしまった。1979年の発掘調査により、階段の下から女性の遺骨2体が発見された。おそらく年老いた母と負ってここまで逃げてきた親子がここで火砕流に飲み込まれてしまったのだろう。あと、35段の階段を上れば(5m程度)助かったのだ。つまり、この付近で火砕流は5mの厚さがあったことになる。

 火砕流発生直後に溶岩を流出し(現在の鬼押し出し溶岩)、これでもってこのときの一連の噴火活動が終了した。噴出物の総量は2億km3という(理科年表)。

 被害は浅間山周辺ばかりではなく、鎌原火砕流がいったん吾妻川を堰き止め、翌日にはそれが決壊し、吾妻川と利根川で氾濫を起こした。遺体は江戸まで流れ着いたという。小岩の善養寺には、このときの供養塔が残っている。

 全体で1,400人以上の犠牲者を出した。噴出物の総量は2億m3(理科年表)に達する。

 浅間山の天明の大噴火については、読書のページの「浅間山大噴火」を参照。ここにも書いたが、大噴火といっても地球の気候に顕著な影響を与えるほどのものではなく、天明の飢饉の原因になったとは考えにくい。

 また、浅間山登山はこちらこちらを参照。

 浅間山はこの噴火以前にも、あるいはこの噴火後もしばしば噴火を起こしている活動的な火山であり、被害も何回か出している。

Google Earthで見る鎌原火砕流。 右が北。鬼押し出し溶岩流がよくわかる。溶岩流の末端から鎌原火砕流が見える。溶岩流の途中から右斜め下に走るのは吾妻火砕流。
http://volcano.oregonstate.edu/vwdocs/volc_images/north_asia/asama_yama.html
鎌原村の観音堂。50段の階段のうち35段が埋まってしまった。階段を登り切った93人だけ助かった。隣に資料館がある。(2010年8月1日撮影) 観音堂の説明版。
2003年2月7日の火口。弱い爆発があり、雪の上にうっすらと火山灰が積もっている(火口右側):気象庁火山の資料
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/306_Asamayama/306_rireki.html
(2008年12月24日現在、リンク先にこの写真がありません)
1958年と1973年の噴火:気象庁軽井沢測候所
http://www.tokyo-jma.go.jp/home/nagano/karuizawa/karuiza6.html

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c.桜島

 1914年1月12日〜14日大噴火。東西の山麓から溶岩流出。軽石・火山灰0.6億m3 、溶岩1.5億m3。この溶岩流(安山岩からデイサイト)で、それまでは「島」だった桜島が大隅半島と陸続きになる。死者58名。溶岩が流れにくいため、厚さ50m以上にもなる。

 ※ 数日前から前兆となる地震があったが、鹿児島測候所「火山噴火と関係なく、噴火はない。」と発表してしまった。東桜島小学校の碑「(いろいろな異変が見られたので)村長は、数回測候所に判定を求めしも、桜島には噴火なしと答ふ。ゆえに村長は残留の住民に、狼狽して避難するに及ばずと論達せしが、まもなく大爆発して、…住民は理論を信頼せず、異変を認知するときは、未前に避難の用意、尤肝要とし、…」。村長の痛恨の念と住民の恨みが込められている。

 桜島はこの噴火以前にも、また以後も、とくに1955年10月からほぼ連続的な噴火を繰り返している。


※ 桜島は過去にあった、姶良(あいら)火山の外輪山である。
 姶良火山は22000年前に巨大噴火を起こして、姶良カルデラ(直径約20km)をつくった。大隅降下軽石(20億m3)、妻屋火砕流(6億m3)、最後に入戸火砕流(150億m3)を放出。別に火山灰(50億m3)を放出。これは、富士山が8万年かかって放出した量に匹敵する。入戸火砕流は、1000m以上の厚さをもち、比高1000mの山も乗り越えて100km以上も流れ、現在も100mを越えるシラス台地として残る。火山灰は600km離れて(京都付近)20cm、900km離れて(東京付近)5cm積もる。2000km離れた太平洋の海底からも見つかっている。

cf. 阿蘇カルデラは7〜8万年前の巨大噴火(噴出物100億m3以上)で形成。

穏やかに噴煙を上げる桜島(2008年5月6日13時27分)。 待避壕と南岳の昭和火口(2008年5月6日14時11分)。
昭和火口の拡大(2008年5月6日14時12分) 昭和火口から噴火。鹿児島行きのフェリー乗り場で撮影(2008年5月6日15時35分)。
噴煙が南東側に崩れて降灰となっている。鹿児島港で撮影(2008年5月6日16時23分)。 桜島の噴煙が南東方向に流れている。鹿児島湾の奥の姶良カルデラの形もよくわかる。
http://volcano.oregonstate.edu/vwdocs/volc_images/north_asia/sakura.html
1914年の噴火。火山灰に埋まった民家。
http://volcano.oregonstate.edu/vwdocs/volc_images/north_asia/sakura.html(2008年8月10日現在リンク切れ)
黒神埋没鳥居。高さ3mの鳥居が1914年の噴火でこんなに埋まってしまった。2008年5月6日撮影。
姶良火山の噴火の想像図:鹿児島大学
http://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/~oyo/shirasu/chap2-1.html
シラス台地、木の大きさからスケールがわかる:鹿児島大学
http://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/~oyo/photo_r.html#sabo

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用語と補足説明

富士山の歴史:従来、富士山は小御岳(すばるライン富士5合目に顔を出している)の上に乗った火山と考えられてきたが、この小御岳の下にさらに古い先小御岳があることがわかった。そのマグマも安山岩質から玄武岩質へと変化してきたこともわかった。


東京大学地震研究所
http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/topics/fujisan/fuji.html

シラス学術用語集(オンライン学術用語集の土木工学編、この用語は地学編、地理編にはない)では「しらす」と平仮名表記であるが、前後の文と紛らわしいので「シラス」とカタカナ表記にした。

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この章の参考となるサイト

火山学者にきいてみよう(日本火山学会):http://hakone.eri.u-tokyo.ac.jp/kazan/Question/br/qa-frame.html

フィールド火山学(群馬大学早川由起夫氏):http://www.hayakawayukio.jp/kazan/field/

火山の資料(気象庁):http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/volcano.html

静岡大学小山真人氏:http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/Fuji.html

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