大唐西域記1 玄奘 水谷真成訳 平凡社東洋文庫653 ISBN4-582-80653-8 2,800円 1999年5月 | 大唐西域記2 玄奘 水谷真成訳 平凡社東洋文庫655 ISBN4-582-80655-4 2,800円 1999年6月 | 大唐西域記3 玄奘 水谷真成訳 平凡社東洋文庫657 ISBN4-582-80657-0 3,200円 1999年8月 |
あの西遊記の原案にもなった、玄奘の大唐西域記。1971年11月に平凡社中国古典文学大系の1冊として出されたものを、3分冊にして東洋文庫に収めたもの。現在でもなかなか大変な行程を、よくもまあ旅をしたものだと、まず感心する。訪れた国々の簡単な描写と、場所によっては残っている仏跡の様子、またその地の仏説話なども書いている。地図も添付されているが、もう少し現在の地名との対照もわかりやすいものだと有り難い。
どういうルートを通って(とくにヒマラヤ越えはどこ?)、往復したのだろう。
大唐西域紀は玄宗に出す「公式報告」ということで、西方への進出を図っていた当時の中国(唐)にとっては喉から手が出るほど欲しい情報であり、また軍事機密でもある部分の記述は制限されていた可能性があるという。
強盗に遭遇したなどという旅の苦労の描写も詳しいという慈恩伝(一部)が講談社学術文庫から出ているので、そのうちの読んでみようと思う。
2007年3月記
12年ぶりに読んだ。老人力が増しているので新鮮。いわずと知れた玄奘の報告書であり、その完訳版。出張報告書みたいな事務的な内容。もっとも、玄宗が一番知りたかった西域については、あまりに簡素なその内容から、西域制圧を目指す玄宗(政権)にとっては極めて貴重な、また秘密にすべき情報なので、無味乾燥なものだけにされたという説もあるほどである。玄奘の一番弟子であった、大唐西域記の口述筆記を担当した弁機のスキャンダル(→死罪)も、秘密を知りすぎた弁機抹殺の口実という話もある。
インドに入ってから少し話が詳しくなるが、それもその地に伝わる仏教説話がほとんど。つまり、玄奘自身が体験した、それぞれの国の国王たちとの交流、現地の僧侶や他の宗教の人たちとの議論、さらには自分自身が恐ろしい目に遭った冒険譚などはまったく書かれていない。つまり、大唐西域記だけではとても西遊記のインスピレーションは湧いてこないだろう。じっさいは、高弟慧立たちが書いた大慈恩寺三蔵法師伝(慈恩伝)が、西遊記のもとになったのだろう。
平凡社東洋文庫版は、平凡社中国古典文学大系版を3分冊したものだそうだ。なので、巻末の地図が小さくて見にくい。そのうえ、地図上の行程図と本文の順番が一致していないところもあって、該当する場所を探すのが大変。
翻訳の水谷真成氏は言語学にものすごく精通している人らしく、中国で現代語訳を出すときにも彼の訳・説が参考にされているというほどの人である。ただ、彼の注はあまりに専門的すぎて、一般読者には過剰サービスといえるものである。
12年前に読んだのは、パキスタンのスワート渓谷(ガンダーラ)を旅して、当地の仏教遺跡を巡ったりしたために、昔旅した玄奘はどうだったのだろうと思ったからだった。今回はNHKのザ・プロファイラーで玄奘をやっていたので、また読みたくなったのだ(単純な性格)。いずれにしても、12年前にガンダーラに行っておいてよかった。当時はタリバーンが跋扈していて治安もあまりよくなかったが、タリバーンの力が弱くなったいまはどうなのだろう。それでも、行くには少し勇気が必要な場所だと思う。
事務的な報告というのは、現地の人に阿ることなく「風俗は勇猛である。殺戮を平然と行い、窃盗を仕事としている。礼儀をわきまえず、事の善悪を知らない。〜略〜姿・貌(かたち)は卑しく…」(尸棄尼国)などと遠慮がないなど。
玄奘よりも200年ほど前に、やはり中国から陸路インドに渡った法顕は単独行ではないし(帰国できたのは法顕一人)、帰りは海路でした。399年〜413年。当時からインド−中国間は海路があったのも驚き。玄奘が帰りも困難な陸路を辿ったのは、現在のトルファンあたりにあった高昌国の国王(往路で援助してもらった)との再会の約束を果たすためだったが、すでに国王は死んで、国は唐に滅ぼされていた。
2019年1月追記
慈恩伝
三蔵法師の歩いた道
玄奘三蔵のシルクロード
パキスタン旅行記
2007年4月・5月追記