マオ 誰も知らなかった毛沢東 ユン・チアン ジョン・ハリディ 土屋京子訳 講談社
マオ 上 ISBN4-06-206846-X 2,200円 2005年11月 2006年1月3刷 |
マオ 下 IISBN4-06-213201-X 2,200円 2005年11月 2006年1月3刷 |
日本語版によせて 第1部 信念のあやふやな男 第1章 故郷韶山を出る 1893〜1911年★毛沢東誕生〜17歳 第2章 共産党員になる 1911〜20年★毛沢東17〜26歳 第3章 なまぬるい共産主義者 1920〜25年★毛沢東26〜31歳 第4章 国民党内での浮沈 1925〜27年★毛沢東31〜33歳 第2部 党の覇権をめざして 第3部 権力基盤を築く 第4部 中国の覇者へ |
第5部 超大国の夢 第32章 スターリンと張り合う 1947〜49年★毛沢東53〜55歳 第33章 二大巨頭の格闘 1949〜50年★毛沢東55〜56歳 第34章 朝鮮戦争を始めた理由 1949〜50年★毛沢東55〜56歳 第35章 朝鮮戦争をしゃぶりつくす 1950〜53年★毛沢東56〜59歳 第36章 軍事超大国 1953〜54年★毛沢東59〜60歳 第37章 農民を敵に回す 1953〜56年★毛沢東59〜62歳 第38章 フルシチョフを揺さぶる 1956〜59年★毛沢東62〜65歳 第39章 百花斉放の罠 1957〜58年★毛沢東63〜64歳 第40章 大躍進 国民の半数が死のうとも 1958〜61年★毛沢東64〜67歳 第41章 彭徳懐の孤独な戦い 1958〜59年★毛沢東64〜65歳 第42章 チベット動乱 1950〜61年★毛沢東56〜67歳 第43章 毛沢東主義を世界に売り込む 1959〜64年★毛沢東65〜70歳 第44章 劉少奇の逆襲 1961〜62年★毛沢東67〜68歳 第45章 原子爆弾 1962〜64年★毛沢東68〜70歳 第46章 不安と挫折の日々 1962〜65年★毛沢東68〜71歳 第6部 復讐の味 エピローグ |
注釈・参考文献一覧および翻訳引用文献一覧
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上下それぞれが500ページを超える大部の本。インタビューリストの日本人には、私の知らない人も。感想はいろいろあるが、ありすぎてまとめきれない。
文革のみが誤りで、それまでの毛沢東は正しかったという現中国共産党の見解。そうしなければ彼らの存在基盤も崩れてしまう。だが、まず毛沢東の乱脈な私生活が暴かれ始め、さらにはその思想からやってきたことまでがまな板に上がり始めた。「毛沢東の真実」もある。
毛沢東はその初めから、いかに共産党内で権力を握るか、またそれを維持するかという姿勢で貫いてきた。そのためには同志であるはずの共産党員を残虐な方法で死に追いやり、また友軍であるはずの、でも自分の脅威になる可能性のある軍隊を死地に赴かせる。こうした権謀・策術はスターリンとも共通する。巧妙に立ち振る舞い、自分に反対するものを孤立させてからゆっくりいたぶる。劉少奇の反撃は遅きに失し、後に毛沢東の復讐を招いたのは劉少奇の戦術のまずさだろう。だが、つねに貧しい人たちを忘れなかった(毛沢東の私生活も批判もした)硬骨の軍人彭徳懐は哀れである。彼のような誠実な人は、共産党内ではこのようにしか扱われないのか。
外交面でも毛沢東は、国内で餓死者(何人死んでも)が出ても、どうしたらヘゲモニーをとることができるかを最優先。
この本で書かれた毛沢東の分析・記述はあっていると思う。だが、問題はそうした“妖怪”がなぜ長期に渡って(死ぬまで)権力を維持できたのか、あれほど勇敢に“帝国主義”と戦った人たちがなぜ簡単に毛沢東にひれ伏したのか、単に恐怖だけではないと思う。個人と組織の問題は、いつでもどこでも難しい問題だと思う。とりわけ“主義”“思想”がからんでくると。
私が学生のころ、毛沢東は一部学生に支持があった。一見道徳主義的な言葉が並ぶ「語録」、また当時の雰囲気と「造反有理」のスローガンをあっていたかもしれない。だが、そのすさまじい個人崇拝、文革初期にあった親の履歴によってその子供が選別されるなどを見れば社会主義とは無縁であることは明らかだったと思う。私は文革は共産党内の権力闘争に過ぎないと思っていたので、冷ややかな目で、というより斜めの目(からかいの目=毛沢東思想を活学活用して“単位”をとりました的な目)で見ていた。
当時、毛沢東とそれほど変わらないと思っていた民青(共産党が指導する青年組織、幹部は党員)の学生官僚に、「なんでクラスのみんながいるときと、一対一になったときでいうことがこれほど違うのか(沖縄、ベトナム、憲法など)。」ときいたことがある。「それが政治技術だ。」といわれてしまった。<ああ、この人たちには勝てない>と思った。でも、彼らのその後は? 彼らも勝っていないではないか。
また別に、日本共産党とは一線を画していた経済学者(労農派)もいた。代表的な人に向坂逸郎。彼の岩波新書「資本論入門」だったと思う。当時すでにその負の面が明らかになっていた東ドイツを理想の国家と認識していた。これだけで、つまりいくら共産党を批判できても、現実を見ることができなくなったら学者としてお終いと思った。そして彼に指導された三井三池の労働者が可哀想とも。
去年(2005年)、中国四川省の旅では長征のルートと何回か交錯した。例えば7月24日の磨西古鎮(ませいこちん)では毛沢東が宿舎に使っていた教会を見た。26日の丹巴から日驍フ間には毛沢東の疲れ果てた第一方面軍と、まだ元気な張国Zの第四方面軍が出会った場所に立てられていた記念碑など。もう少し長征を勉強してから行けばよかった。そして、二束三文で売られていた文革グッズをもう少し精力的に集めればよかったとも。
磨西古鎮の教会 | 第一方面軍と第四方面軍が出会った場所。この記念碑はまだ新しいようだ。 |
2006年2月記