戦国の城攻めと忍び

戦国の城攻めと忍び 戦国の忍びを考える実行委員会・埼玉県嵐山(らんざん)史跡の博物館編 吉川弘文館 ISBN978-4-642-08434-5 2,000円+税 2023年6月

 北条 vs 上杉を中心に、さらに戦国時代最終期の北条 vs 豊臣の城攻めまでの、関東地方の城攻めの際の忍び(すっぱ、らっぱ、くさなど)の実際の行動を、軍記物などではなく、諸将間でかわされた書状などの一次資料を中心に考察する。

 そこでは、城攻めの際に夜の行動(敵方の城に潜入、攪乱、放火など)を得意とする、職能集団としての忍びが浮かんでくる。つまりまだ当時は、有力大名や有力武将専属の配下ではなく(甲斐武田家にはいた?)、活躍した場合の報償として土地やお金を与えられる傭兵として用いられたようだ。
 第II部第三章は八王子城。八王子城跡には何回か行ったことがあるので興味深い。

 ただ、ここでは忍びの行動はあまり明らかではなく、虎口(こぐち)に陶製の撒菱が撒かれていたようだ程度しかわかっていない。その代わりにこの章では、八王子城の前身である滝山城からの歴史がコンパクトにまとめてある。
 滝山城は北条家三代目北条氏康の三男北条氏照が築城。

 永禄12年(1569年)、甲斐武田氏が北条と敵対、武田本隊は碓氷峠超え、別働隊小山田信茂隊(岩殿城城主、武田勝頼が最後に岩殿城を頼ったが信茂が離反)が小仏峠を越えて滝山城に攻め込んできたとき、小山田隊を廿里(とどり)で迎撃したが破れ、一時は滝山城の三の丸まで攻め込まれた。ただ、武田隊はここは攻め落とさず、そのまま小田原に向かった。このとき小田原城は防衛に成功。

 ただこの敗戦を教訓化して、氏照はより小仏峠に近い深沢山(460 m)に山城を築いた(1587年)。それが八王子城。頂上部に本丸、それを囲むようにいくつかの曲輪(くるわ)、麓には御主殿などふだんの政務・生活の場という巨大な施設。しかもその後使われなくなったので、比較的当時の状態が残っているという。

 天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉の小田原城攻めが始まる。東海道を進む本隊のほか、北から攻める別働隊、前田利家(18,000)、上杉景勝(10,000)隊(別働隊の一つ真田幸村隊は(3,000)忍城攻め)+降伏した北条兵士は6月23日に八王子城を攻める。このとき城主の氏照は小田原城に兵3,500を率いて不在、城を守っていたのは1,000程度という。

 秀吉から守備兵の助命を許さない力攻めを命じられていた前田・上杉隊の猛攻で、八王子城は一日で落城となった。当然攻撃側にも大きな損害は出るが、籠城兵はほぼ皆殺しになる。さらに籠城した女性子供たちも殺され、また自害し、御主殿脇の御主殿の滝は三日三晩赤く血に染まったほどだったという。

 だが、そのとき籠城側で奮戦・戦死した中山家範(勘解由)は、その勇猛を惜しんだ家康が勘解由の息子二人を召し抱えることとなる。まさに武士は死んでも家を残す。中山家は馬術が得意だったそうだ。

※ 八王城跡アルバム
https://photos.app.goo.gl/ai24gDeA16Bo3Uoq9

 

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2023年7月記

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