ニュートンに消された男ロバート・フック

ニュートンに消された男ロバート・フック 中島秀人 角川ソフィア文庫 ISBN978-4-04-400390-6 1,080円 2018年12月

 友人から紹介された本。1996年朝日新聞から発行されたものを、若干改訂した文庫版。脱稿が2018年ということだが、その20年の間にも新たな、とくにこれが確実というフックの肖像画は見つからなかったそうだ。

ロバート・フック(1635年〜1703年)は、弾性体のフックの法則(バネに加えた力と伸びは比例する)ばかりか、ボイルの法則(気体の体積と圧力は反比例)もじつは発見者はフックではないかといわれている人。細胞(セル)の名付け親ともいわれている。ボイルの助手として王立協会(たんにイギリス王家が認可した団体というだけで財政的補助をしているわけではない)の会員(のち有給の事務局長)になり、毎週行われる協会での実験を行っている。

 とても有能な人だったが、皮肉屋の面もあり、ニュートン(1643年〜1727年)が彼が作った反射望遠鏡で王立協会にデビューしたときにも(1672年)、光学を巡って対立(光を粒子とみる(ニュートン)か波動とみる(フック)かという根本的な対立)。のちに、万有引力を巡っても先取権でニュートンと対立(1686年)。ということもあり、ニュートンは彼に“生理的嫌悪”を感じるようになったようだ。ニュートンは彼の名を聞いただけで興奮したという。そのために、ニュートンが王立協会の絶対的なトップとなったあと、ニュートンは徹底的にフックの痕跡を消したという。そのために、彼の業績ばかりか、肖像画も棄てられたので、上に書いたように彼の確実な肖像画がなくなってしまったということになる。

 フックはこうしたこともあってあまりその実像は知られていないが、あり余る才能に恵まれた多芸多才な人、ただ興味が多彩に渡りすぎて、またルーチンの仕事が忙しすぎて(毎週目新しい実験を考える)、そのために一つのことをじっくりと考えることができなかったこと、そして数学的な才能と集中力がニュートンほどはなかったことが致命的だったのだろう。

 彼との諍いを解決するために、ハレー彗星のハレー(1656年〜1742年)の援助(財政的にも精神的にも)のもとで、ニュートンはプリンピキア(1687年、自然哲学の数学的原理)を書くことになる。これを境に、そして溺愛した浮気な愛人(姪)の死もあり、この後フックは急速に衰えていくことになる。

 ということで、自分のWebで書いたフックとの争いについては、とくに修正点はなかったと思う。
https://www.s-yamaga.jp/nanimono/sonota/newton.htm

目次
文庫版まえがき ロバート・フックの肖像画
序 ワイト島への旅立ち フックの実像を求めて
I 科学者フックの誕生
第1章 ワイト島からオクスフォードへ
第2章 科学者フックの誕生
第3章 王立協会とグレシャム・カレッジ
II フックの科学的業績
第4章 ミクロの世界の探求
第5章 気体研究への取り組み
第6章 フックの日常生活
第7章 フックの法則
第8章 天文学者フック
第9章 17世紀のレオナルド 改良技術家としてのフック
III 二人の巨人
第10章 ニュートンの登場 光学論争の始まり
第11章 巨人の肩に乗って 美しき和解?
第12章 落体の運動についての論争
第13章 「プリンピキア」 決定的決裂
終章 ニュートンに消された男
あとがき 若き日の先端研に捧ぐ

人名索引

Newtonnikesaretaotoko-01.jpg (99070 バイト) Newtonnikesaretaotoko-02.jpg (125214 バイト)

2021年3月記

戻る  home