よみがえる天才(5) コペルニクス 高橋憲一 ちくまプリマー新書 ISBN978-4-480-68389-2 860円 2020年12月
宇宙観における“コペルニクス的転回”をもたらしたコペルニクス(1473年〜1543年)の評伝と、彼の地動説の紹介。
プトレマイオスの天動説もものすごく実証的(観測&数学的な処理)、つまり天体の運動、とりわけ太陽や惑星の運動を予測できる。だた、いかんせん面倒、観測の精度が上がってくると誤差も目立ってくる。
コペルニクスは両親が死んだあと、カトリック教会の司祭であった叔父の援助で大学へ進むことになる。当時のポーランドは中にドイツ騎士団が実効支配している地域があり、さらにその中にポーランド領(ワーミア)があるという複雑な状況。そのワーミアで、叔父は司祭(司教)となる。宗教的にも1517年ルターの改革(プロテスト)。
コペルニクスはポーランド南西部の古都クラクフの大学に進学。ここで、天文学に興味を持つようになったようだ。さらにイタリアのボローニャ大学へ。法学が目的(叔父の跡を継ぐため)だったが、実際には天文学の修得を目指したようだ。ついで、学業延長の許可を得て、医学を学ぶためにイタリアのパドヴァ大学へ。当時はそれぞれの臓器は特定の惑星と結びついていると考えられていたので、天文学とは無関係ではない。医学は宗教者としても、ある意味必須だし。合計6年間のイタリア生活を終え、以後ワーミアで宗教者としての生涯を送ることになる。
ワーミアの複雑な立ち位置もあり、本職である聖堂参事会員としての忙しい毎日、さらには医療も少し、そして残った時間で天文学の研究、プトレマイオスの天動説に対する批判的な検討を始める。
精緻なプトレマイオス天動説に対して、もっと精緻なコペルニクスの地動説。ここが少し不思議なところだが、当時のヨーロッパはいくつかの国に別れてたのに、若者は自由に外国の大学を選べただったこと(もちろん財政的な基盤は必要)。もう一つは、、インテリゲンチャーの間での情報の共有。出版に至らなくても、論文はコピー(もちろん手書き)を送ったり、また送られた人が書き写して広がっていく。こうしてコペルニクスの地動説と名声が広がっていく。
太陽中心説を述べた「コメンタルオリス」は1510年ころ(コペルニクス37歳ころ)らしい。これが広まり、とうとう1539年若き数学差レティクス(当時25歳、コペルニクスは65歳)が、本の出版することを説得にやってくる。コペルニクスの親友ギーザも一緒に説得するが、なかなか同意しない。コペルニクスの地動説を使えば、当時問題となっていた改暦(暦のずれ)もよりかんたんに解決できると、本人も自ら教皇に売り込んだこともあるに。だが、はやり神学者やアリストテレス派哲学者の反応がわかるので、なかなか出版に同意しない。もやはコペルニクスは、彼の地動説が計算が簡単になるような仮想的・数学的モデルではなく、実際に太陽の周りを地球が回っていると考えるようになったことが大きな理由かもしれない。
だが、とうとう1543年(3月以前)に、「天球の回転論」(原稿は1451年ころ?)を出版。コペルニクスの元に届いたのは1543年5月24日、その日にコペルニクスは死んでいる。数日前に脳卒中で倒れ既に意識はなく、自分の本は読めなかったらしい。しかし、その方よかったかもしれない。レティクスに頼まれた印刷監督オジアンダーが、「これは宇宙の実際の姿ではなく、星の位置の計算するときに便利な数学的フィクション」という序文を勝手につけてしまっていたので。つまり「悪意なき善意」で、コペルニクスの本当の考えを否定したものになっているので。
この本ではその後、ブルーノのことや、さらにガリレオ、そしてケプラーまで話が繋がっていく。そてし、プトレマイオスの本は、岩波文庫などでは「天体の回転について」だが、この本では「天球回転論」となっていて、より原題(On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books)に近い。著者の訳書ではもちろんそうなっている。
コペルニクスがなぜ天動説を捨てて地動説という立場に立ったのか。本書でもここがこの本のクライマックスとしていろいろ考察している。根底はケプラーにも繋がるところだが、神が作った宇宙には調和があるはずという信念があったと思う。この本ではその数学的な検討に重点を置いている。
そして世の要請=改暦の問題も。だが、もう一つの要請、陸が見えない大航海時代になって(1492年コロンブスの大西洋横断)、より精密な惑星の運動表が必要になった来たという要請が背景になっただろうということに対しては、当時の航海ではプトレマイオス天動説の誤差は問題にならないとしている。山本義隆とは少し違うところ。
あともう一つ、古代ギリシャのプトレマイオス「アマルゲスト」がアラビア経由でヨーロッパに再輸入(ルネサンス)されてということは、他の天文書も再輸入されている。つまり、アリスタルコスの地動説も知っていたはず。これについてはまったく触れられていないが、ヒントになった可能性もあると思う。
いずれにしても、地動説はケプラーとニュートンで理論的にはほぼ完成。でも、その証明は、公転については1728年ブラッドレーの年周光行差、1838年ベッセルの年周視差の発見、自転については1851年フーコーの実験まではなかったことになる。
2021年10月記