沈黙する教室 ディートリッヒ・ガルスカ 大川珠季訳 アルファベータブックス 2,500円 2019年5月(2019年6月第2刷)
舞台はベルリンにほど近い東ドイツ(当時)の小さな街シュトルコーの進学高校、登場人物は最高学年(12年生)の1クラスの生徒とその保護者たち、教員たち、さらに国民教育省大臣までも。
ときは1956年10月末、半年後に、エリート予備軍である生徒たちにとっては大学入試資格試験(アビトゥーア)を控えている重要な時期である。
御法度の西側(アメリカのRISA)の放送を聞いて(プロパガンダばかりの東ドイツの放送を聞いても仕方ないので、クラスのみんなが聞いている)、ハンガリー動乱が起き、介入したソ連(当時)の武力行使によって多数の犠牲者が出た、RISAは犠牲者のための黙祷を呼びかける。さて、生徒たちはどうするか。
次の日の朝、1時間目の授業の前、ハンス・ユルゲンはみんなも黙祷しようと呼びかける。最初の歴史の時間、学校のFDI(自由ドイツ青年団、SED(ドイツ社会主義統一党=共産党)の組織)教員ヴェルナー・モーゲルの歴史の授業(口頭試問)の冒頭、10時から10時5分までの5分間、みんな声をださいない(実質黙祷)という暗黙の了解がたちまち成立する。
授業が始まり、その5分間が始まる。様子がおかしいと気づいたモーゲルは、みんなに問いかける、さらに個人個人にも問いかける、そして最後に5分経ったことを確認したギーゼラ(女子生徒、クラスのFDIリーダー)が、問いにようやく「何でもありません。」と答えて、緊張した5分間が終わる。
最初は生徒たちのいたずらかと、あまり深刻に考えていなかったモーゲル。でも、だれかが密告したようだ、あの沈黙の5分間は、DDR(東ドイツ)に対する反逆の意思を示したものだと。
※ 密告者は現在わかっているようだ。シュタージ(秘密警察)の記録が公開されているので。ただ、本署では敢えてその名は明らかにしていない。
党員教員たちによる厳しい尋問が始まる。でも、だれも首謀者をいわない(実際中核となるメンバーはとりわけいないし)、業をにやしたDDR政府は教育省大臣ランゲを派遣する。ランゲ自らによる高圧的な尋問、退学(=大学に行けなくなる)をちらつかせながら、各生徒・生徒に。でもそのあまりに強圧的・紋切り型、しかも家族までを貶しこめる尋問がかえって生徒たちの反発を買うことになる。
その過程で黙祷は、有名なハンガリーのサッカー選手プスカーシュが銃撃されて死んだことに対するものだ、ということにするが、じつはそれはプスカーシュ選手の死はRISAの誤報で(もともと東ドイツの放送はハンガリー動乱を伝えていない)、つまり生徒たちは御法度のRISAを聞いていたことになるが、なぜかこれは追求されない。
結局クラス全員が退学処分となる。東ドイツに残っても仕方ないということで、クラスの男子15名全員が西ベルリン経由で西ドイツに逃げることで一致する。そして、目立たぬように二人ずつという形で。
女子生徒4人は全員残ることになる(逃亡の意思がなかったというより、家庭の事情が大きい。のちに東ドイツに絶望した一人も逃げ出す)。ただ、残ったことで黙祷に積極的に関わったわけでないということになり、他校への転校を認められる(大学受験資格試験を受けられる)。
と、ここから親子での葛藤、緊迫した、そして命がけの逃亡劇が始まると思いきや、逃亡自体はは意外とあっさり。まず、息子から逃亡の意思を聞かされると、同意する親が多い(中には積極的に進める親も)。やはり、息子はもちろん自分も東ドイツにいても仕方ないと考える親が多かった。さらに当時はまだ、東西ベルリンの交通は比較的自由にできて、西ベルリン(さらに西ドイツ)の親族・施設を訪れることは珍しくなかった。もちろん、国境を越えるときには緊張するが。結果的には男子全員が無事に脱出に成功する。
残された家族も、脱出した子供を説得するという名目での訪問は認められていたという、まだ東西を隔てる壁ができる以前の、ある意味まだ牧歌的な時代。もちろん、母の急病を伝える電報を送られた生徒、戻らなくてはという気にさせられた生徒もいた(いつもは「ママより」なのに、「母より」とあって怪しみつつも、母が心配で東ドイツに戻ろうとしたときに、その母が元気が姿で尋ねてきたりという電報による謀略もあったりする)。
当然、彼らは西側の広告塔になることになる。でも、逆のそれを利用した同窓会(クラス会)も開くことができるようになる。
そして、この不定期で開かれる同窓会(クラス会)が、東西統一後のシュトルコーでも開かれたりする(1996年にテレビ局が持ちかける、この時点直前に一人死亡、音信不通一名)。残った女性たちもそれなりに生きてきた(当たり前)、別れた恋人も結婚していた(当たり前)こともわかる。
男子たちもそれぞれがそれなりの生活を築いた、社会に不適合(?)の一人を除いて(クラス会には参加)。彼らの職業一覧もある。
この本は、脱走した生徒の一人、ガルスカ・ディートリッヒによるノン・フィクションなのだが、何というか、だれが主体で話しているのかよくわからない場合が多い。日本語訳もこなれていないような気がする。ノン・フィクションなので、当時の教員たちを訪れたインタビューもあるが、隔靴掻痒。教員たちもそれぞれの事情と思い、さらに黙祷事件でキャリアが狂ったことがわかる程度で、迫力がない。 この本の筆者は、出版後2年で亡くなったという。もうこの集団脱走劇をを伝える語り部もいなくなったということか。
この本は、映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」の原作だという。ただ、映画は見ていないので比較できない。
日本語訳の人名表記が揺れている。中黒(・)があったりなかったり。例えば、ヴァルトラウトだったり、ヴァルト・ラウトだったり。読みにくい一つの原因だと思う。
東ドイツ(DDR)の歴史教科書では、たぶん日本の左翼ではあまり評価が高くないだろう、カール・リープクネヒトやローザ
あとドイツ、とくに東ドイツはソ連兵によって蹂躙されたわけで、つまり満州で起きた事態がドイツで起きたわけで、民衆はDDR幹部と違って、ソ連に対する反発があったのだと思う。上の学校でももう一つの事件、モーゲルの授業中に「DDRはソ連の植民地だ!」のヤジが飛んだ事件も、この件と併せて捜査されることになる。民衆には、DDR幹部と違ってソ連に対する反発があったのだと思う。東ドイツが西ドイツに併合される一つの原因。
もっとも、東ドイツを占領したソ連兵も、家族や友人たちをドイツ軍によって殺された人も多かっただろう。復讐の連鎖。
それにしても、密告者が周りにうようよいて、権力が密告を奨励する社会って、嫌だなぁ。
クラス全員の逃亡劇なので、登場人物が多い。さらに一人一人がいろいろと違う教員たち。登場人物一覧が欲しい。そして略語。初出では日本語の名称でも出るが、覚えきれるものではない。これも一覧が欲しい。ということで、仕方なく作りました。ある程度のネタバレになってしまいます。
ガルスカ・ディートリッヒ:著者
母は面倒見のいいムッツ、のち一家(夫、子供3人)で逃亡
カルステン:父は西ドイツ、母と暮らす、母も逃亡
ホルスト・Z
ホルスト・R:父が医者
ベルント=ユルゲン
ハンス・ユルゲン・D:父が西側で弁護士、離婚した母と暮らす、連絡取れず。
ラインハルト・V:父がもとナチ党員として強制収容所入り、祖母に説得されて逃げる、大学生活がうまくいかず、後のちに生活保護受給者になる。クラス会には参加。
ゲルト・ディーター:転校生、父がダイムラー・ベンツ飛行機工場幹部、ナチ、ソ連に拘束される。ジャーナリスト志望。夜に尋問を受けたことをディートリッヒに伝える。母と妹も逃亡、西ドイツで空軍パイロット、1996年同窓会直前に死亡
ジークフリート:GSTで無線技術(RISA傍受)
アルトゥール:父が有力党委員(だが積極的ではない)で上級建築士、尋問に来たランゲとやり合う。戻っても大丈夫という自信から逃げる。両親も逃亡、兄も逃亡
ヴァルトラウト:獣医師脂志望,、残る
ウルズラ:教師志望
カルステン・K:学級委員
ヴォルフ・ガング:最後に逃げる。
クラウス・S
ギーゼラ(女生徒):クラスのFDJリーダー、母を考え残る
ゲルトラウト(女生徒);残る
ウルズラ(女生徒):残る
ヴァルブルガ’(女生徒):キリスト教徒、迷い、東ドイツのキリスト教はダメとわかり逃げる。
マリオン:デートリッヒの当時の恋人、1996年の同窓会に来訪・再会
ヴェルナー・モーゲル:歴史教師、FDJ書記、沈黙の教室の時授業、のちPDS(民主社会党=共産党)党員
グフタス・カフナー:担任、物理・化学、ほんとは違うことを教える苦痛
パウル・ホルツ:国語、SPD(スパルタクス団)から心ならずもNSDAP(ナチ)になった過去
ゲオルグ・チータス:音楽
リヒャルト・ヴェ−ル:ロシア語、SED党員、石頭ではない
ゲオルグ・シュヴェアツ:校長、生物、チリ、SED党員
ヴォルフガング・フリッケ:数学、CDU(キリスト教民主同盟)党員、西側の服、美人妻、1996年ヴァルブルガ’と恋仲
パウル・ヴェルナー:SED党員、用務員
ランゲ:国民教育大臣
RISA:(西ベルリンアメリカ占領地区放送)
DDR:東ドイツ
mfs:国家保安省
AVH:ハンガリー国家防衛省
FDJ:自由ドイツ青年団
BPO:企業内党支部
SED:ドイツ社会主義統一党(共産党)
GST:スポーツ・技術協会
シュタージ:秘密警察
アビトゥーア:大学入学資格試験
2021年7月記