シーボルトの日本報告 栗原福也編訳 平凡社東洋文庫784 ISBN978-4-582-80784-4 2,800円 2009年3月
東インド会社総督への「報告」なので事務的なものが多い。支払いの明細もあるが、当時のお金の価値がわからないのであまりイメージがわかないが、それでも大変な支出をしているということはわかる。
1796年生まれのシーボルトが日本に来たのは1823年、27歳の時となる。シーボルトは名門の出らしいが、小さいころに父が死んで以降、母方の伯父に世話になり貧乏生活送っていた。なので、生活のために医者になったのは正解で、年俸3600グルテン(ってどのくらい?)の植民地陸軍軍事少佐になった。もともと博物学(当時ヨーロッパでは隆盛の学問)に興味があったし、高額の給料(その他私物(ワインなど)を売ることも可能、珍しいものが手に入れば、帰国後に莫大な富を生む可能性)と、日本というまだヨーロッパ人にはあまり知られていない、知ることができないフィールドを手に入れたことになる。若くて野心に富んだシーボルトの心は躍ったに違いない。
中でも一番望んだのは、江戸での長期滞在である(江戸参府は1826年)。しかしこれは様々な事情で許可されなかったようだ(解説ではもともと無謀で実現性のない計画という元商館長ドゥフの意見を紹介)。だがシーボルトは、この件も不仲な出島商館長デ・ステュルレルの妨害のためと受け止めた。以前からずっとシーボルトは彼ともめていて、「報告」にも延々とそれが述べられている。結局何が原因でそんなにもめたのかよくわからない。想像するに、赤字体質の東インド会社の中間管理職としての商館長は経費削減を求められ、一方シーボルトは調査費(珍しいものを入手するため)を潤沢に使いたいというもの、また公の貿易ではあまり儲からないのに、シーボルトを含めた出島のオランダ人館員の私貿易で儲けていることも気に触っていたのかもしれない。シーボルトも出資金8680グルテン(いくら?)に対して、配当1万7624グルテンの配当金(年棒の5倍近い)を得ていたという。いずれにしろ、心身ともに疲れてしまったデ・ステュルレルは商館長の任期を全うすることなく、辞職することになる。
それでも、歴代商館長は重荷と感じていた、できれば江戸には行きたくない、火事も怖いしという雰囲気だったらしいが、シーボルトにとっては、往復の過程での日本人知人との再会を含めて、江戸参府はそれなりに楽しかったようだ。
「報告」なので、私的なこと、たとえばたき(楠本滝)のことなど出てこない。付き合いのあった日本人の名前は出てくるが、鳴滝塾のことを含めて、どのような人たち何かはあまり詳しくない。
1828年には帰国する予定だったシーボルトは、いわゆるシーボルト事件のために帰国できなくなる。一般的にはシーボルトの荷物を積んだ船が嵐で座礁し、荷物の臨検でシーボルトの荷物から禁制品がたくさん出てきたのが事件の発端といわれているが、この本の解説では積み荷臨検説は根拠がないという。どうも、シーボルトに地図を渡した高橋作左衛門を誰かが密告して(シーボルトは間宮林蔵を疑っている)、シーボルトの私物を調べるようにという早飛脚が江戸から長崎に届いた(12月7日)というのが真相らしい。いずれにしろ、大勢の日本人知人が巻き込まれたシーボルトは心を痛め、日本への帰化まで申請するが、もちろん認められない。
ということで、彼が出国できたのは1830年1月3日、6年4ヶ月の滞在であった。帰国後はライデン大学日本学センターの教授となり、大学近くの豪邸で執筆に明け暮れることになる。
さらに、日本からの追放令が解けた1859年から62年に再来日して幕府の顧問になっているが、息子を通じて日本の情報をロシアに渡したいうことで解任されている。この辺の事情はこの本の解説にも書かれていない。
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2020年4月記