ジーボルト最後の日本旅行 A.ジーボルト 斎藤信訳 平凡社東洋文庫398 1,200円 1981年6月(1982年9月初版第2刷)
わかる人は筆者名がA.シーボルトなっているだけで、有名な方のシーボルト(フィーリップ・フランツ・シーボルト、1796年〜1866年)ではないことがわかると思うが、そんなことは知らなかったので、読み始めて初めてわかった。この本は長男アレキサンダー・シーボルト(1846年〜1911年)が書いたものだった。
まだ、13歳だったアレキサンダーは、通っていたギナジウムもやめさせられて、父の日本行きの同行することになる。アレキサンダー13歳、1859年のことであった。
ペルー来航(1853年、54年)など、相次ぐ外国船の到来に対抗できなくなった江戸幕府。そうしたなか、幕府はシーボルト事件によって国外追放したシーボルトに対する処分を解いて、一時は彼を外交顧問する。この本では、詳しい経緯はよくわからないが、結局はまもなく解任される。息子をロシア軍に就職させようとして、日本の情報をロシア側に渡したことが疑われたのだろうし、何よりも尊大なシーボルトの態度が嫌われた可能性もある。いずれにせよ、父は再び江戸退去となり、失意のうちに帰国する(1862年)。帰国後も社会的には不本意な生活を送ったようだ。もう一度日本を訪れたかったらしいが、叶わずに1866年没。どうもフィリープは自分に対する自信が強すぎて、他人との協調性に欠ける性格だったようだ。これが、前回の来日時の商館長スチュルレルとの対立の原因だったのかもしれない。
アレキサンダーの方は父の友人の紹介で、イギリス公使館の日本語通訳として雇われることになる。15歳のときであった。勉強していた日本語が役に立ったことになる。その後も、幕府の遣欧使節団の通訳をやったり、さらに日本政府の外交官としても活躍している。1887年ごろにそれも辞し、以後ドイツで父の遺品の整理などをして暮らしていたようだ。当初の不平等条約を苦々しく思っていた節もある。1910年には日本の勲章ももらい、1911年没(64歳)。
この本は、父フィリープと一緒に日本にいたごく短い間、アレキサンダーが13歳〜15歳のころの話。いつも忙しく何をやっているのかよくわからない父(なので、フィリープの話はあまり出てこない)、なかなか日本食にもなじめないし、当時の西洋風料理はとてもダメだし、それでも父のまわりに集まる日本人知識人たちとの交流は楽しかったようだ。だが、当時は尊皇攘夷テロが頻繁に起きていた時代、じっさいに東禅寺のイギリス公使オールコック襲撃事件のあとの生々しい現場を見て、衝撃を受けたりもしている。もっとも、父の方は若いころから何回も“決闘”を経験していた剛毅な人で、いざとなれば自分も戦う気だったようだ。
結局、父フィリープがなぜ少年アレキサンダーを、学校をやめさせてまでして(シーボルト家は大学出の医者が多い家系)、日本に連れてきたのかはわからない。しかし、結果としては外交官として活躍できたわけで、学校より実地教育という考えが成功したのかもしれない。
2020年4月記