なぜ原爆がアメリカでは悪ではないのか アメリカの核意識 宮本ゆき 岩波書店 ISBN-978-4-00-042182-3 2,900円 2020年7月
以前、「核に頼るハリウッド」という題で投稿したことがある。何が大きな問題があると、最終的には核に頼って解決するというストーリーが多いハリウッド映画。たとえば、日本では核の犠牲者ともいえるゴジラが、ハリウッドでは核によって再び力を回復し、人類のために闘うという筋になる。確かにハリウッドの意識や、その背景のアメリカの市民の意識には違和感がある。
一つは素朴な「科学信仰」があると思う。つまり、「ラララ科學の子」である原爆(や水爆)は、神から与えられたもので莫大な力を持っている、その力は正しい人(国)が使えば役に立つし、悪い人(国)が使えばおびただしい人的被害を与える。現在、悪い人(国)も原爆を持っているので、抑止力として核を持つのは当然だ。いいことに使えば、エネルギー源(電源)のもなるし。これって、60年代前半までは、日本共産党系の人たちも、裏返しでいっていた。「きれいな原爆と汚い原爆」。自分が学生時代にもまだそれを言っていた人たちが残っていた。
※ 日本でもかつては核に夢があった時代は否定できない。あの「鉄腕アトム」の動力源は原子力(ドラえもんも?)。その名もアトム、妹はウラン、弟はコバルト。たんに素粒子名、元素名ではなく「核の力」をイメージしていたと思う。
抑止力ということでいえば、アメリカでは市民が銃を自衛用に持つのは当然という意識も強いという現状もあると思う。「子供たちの安全」ということに、細かいことまで気を遣うアメリカが(たとえば幼児が口に入れると事故に繋がるようなものに対する規制)、それ以上の被害を生じている銃には甘いという現実。もちろん、広島・長崎が第二次大戦を終結させたという認識もあると思う。
もう一つは暗闇でも光るパワーを持つ放射線(放射能)に対する畏敬の念。さすがに今日は放射線源を健康器具として売るような行為は許されないと思う。当初は、通常の”パワーストーン”よりも遙かに効果がありそうという感じだったのではないか。これが今日まで、放射線に対する甘い認識に繋がっている可能性がある。
実際には「被曝大国」でもあるアメリカでも、それを訴えることの難しさ、これはある意味日本の企業城下町と同じ状況。
さらにもう一つはマッチョ信仰。単純に強いことはいいことだ、強い人(男)が弱い人(女子供)を守るのだという意識。ヘミングウェイ的な感覚。アメリカアニメのヘラクレス的男性像。核はその象徴でもある。
こうしたアメリカ市民に対して、この本でもその難しさが繰り返し述べられているが、「被ばく(被爆と被曝)体験」を伝え、それを核廃絶への手がかり足がかりにしようとする難しさ。被爆体験を伝えても、よくそれだけの惨状からこのように立派に意見が表明できるようになったということになることが多いらしい。これもある意味マッチョ信仰。
まあ、現実にはアメリカだけではない。日本政府も「敵基地攻撃(先制攻撃)」という言葉は避けつつも、実質それを担う攻撃力を保持・拡張しようとしている。政権党内には、その延長に核を考えている人も少なくないだろう。
放射線も、高校・大学の物理教員の中にさえ、「100mSvくらい(の一時被曝)、まっいいか。」と公然といって、ホルミシス説を支持していた人たちもいる(いた)。さすがに2011.3.11以後数年間はおとなしかったが、最近また復活しているようだ。
当たり前だが、日本も核に対して一枚岩ではない現実も見る必要があると思う。
この本では、アメリカの大学の学費も紹介されている。私学での平均年額は310万円、シカゴ大学は800万円(2025年には1000万超)。公立イリノイ州立大学でも360万円。学生ローンの金利が年5.05%程度。たしかに、これでは格差は拡大するばかり。
※ ここで紹介されている日本の学費は安すぎると思う。もっとも、自分が学生のころは月額1000円だった。高校は月額800円。それらと比べると、現在の学費は日本でもべらぼうだと思う。
目次
序 章 核意識の齟齬――日本とアメリカ
アメリカ政治における原爆論説
表象としてのキノコ雲、象徴としての超人
倫理学と原爆論説
アメリカにおける語りと謝罪
この本の流れ
第一章 アメリカのキノコ雲
戦争の語り――日本とアメリカ
アメリカの教育の中の原爆と核兵器
忘れられていく原爆の語り
困難の克服を目指すという物語のパターン
第二章 原子力の様々な表象
強力なアトム・無垢なアトム・手なずけられるアトム
核のセクシュアライゼーション
歌われる原子力
放射能でパワーアップ
日米の温度差
第三章 原爆と正義をつなぐもの――軍隊
アメリカの教育制度
教育と軍隊――GIビルとROTCプログラム
軍・兵士の社会的位置づけ
セーフティーネットとしての軍
自衛としての核兵器
記憶の受け皿
第四章 「核の平和利用」言説――反共としての宗教政策
転換の一九五〇年代
五〇年代のアメリカ核政策
アイゼンハワーのキリスト教による原爆論説
核と宗教
第五章 ジェンダー化された原子力
核論説における言葉とジェンダー
「新しい」女性像と核兵器
「家庭」の軍事化
アメリカにおける「原爆乙女」の表象
守られる性・無垢性・仕える性
第六章 隠されてきた被ばく――核実験・人体実験・核廃棄物
被ばく隠しの政治
科学者たちの被ばくの影響を巡る攻防
放射能人体実験
被ばくを語れない被害者
第七章 被ばくを歪める語り――なぜ被ばくを語りえないのか
ラジウム・ガールズはいかに語られたか
健康飲料としてのラジウム
観光化するアメリカの被ばく地
語られる核の力・語られない核の被害
これからの「語り」
「歪められた語り」の解体と「被ばくの語り」の連帯の可能性
あとがき
2020年8月記