追跡 金正男暗殺

フラクタル ケネス・ファルコナー 服部久美子訳 岩波科学ライブラリー291 ISBN978-4-00-029691-5 1,500円 2020年1月

追跡 金正男暗殺 乗京真知・朝日新聞取材班 岩波書店 ISBN978-4-00-016386-6 1,900円 2020年1月
 この本が脱稿した2019年12月と大きく情報が異なるのは、失脚説、あるいは死亡(あるいは認知症)説が信じられていた、金正日(キムジョンイル)の妹であり、粛正された張成沢(チャンソンテク)の妻でもあった金敬姫(キムギョンヒ)、つまり金正男(キムジョムナム)の叔母が、いまだ金王朝の中での高い地位を維持していること(2020年1月25日旧正月記念公園で金正雲(キムジョンウン)夫妻のごく近くに座っていたこと)が確認されたことだ。“行方不明”になっていた時期はパリにいて(この本ではほぼ亡命生活となっているが、それは誤った情報だったということになる)、病気(心臓)の治療・手術を行っていたらしい。しかも、そのパリの叔母のもとに、ときどき正男が尋ねていったことがあるらしい。叔母は子供のころの正男を、モスクワで闘病生活していた正男の母・成恵淋(ソンヘリム)に代わり可愛がっていた過去があり、母親代わりだった敬姫を正男は親身に世話をしていたらしい。手術が終わった2016年9月ころ、マカオの自宅に戻る正男に、敬姫は「今度いつ来てくれるの?」と声をかけたという。正男が暗殺されたのは2017年2月だから、それからまもなくだったということになる。暗殺は、こうした叔母とつながりを断つ意味もあったのだろうか。あるいは叔母は、つねに正男を動向を監視していたのだろうか。権力内の覇権争いは想像できほどシビア?

パリ滞在中の金敬姫の目的がたんなる病気治療だったとすると、金正男の叔母訪問の意味が違ってきます。すなわち、北への帰国の口添え、それが無理でも身の安全の保証を取りなしてもらうため、という可能性が高い。すなわちたんなる叔母のお見舞いではなく、「政治的目的」だったということになります。

 陰謀謀略が渦巻く後宮(大奥)で、男の子が生き延びるのは大変そう。徳川家定や織田信長の奇行も、生き延びるための方便だったのか。正男も、政治には興味ないこと、正雲と争う意思はないということ、リッチで安穏な生活を送りたいだけだというメッセージを送り続けていたが(一見脳天気風な雰囲気)、それでも正雲は脅威としてみたのだろうか。

 あと、この本では実名を明かしていない正男と親交のあった日本人Aさん。正男との個人メールのやりとりを取材陣に公表している。このAさんは「藤本健二」氏だろうか。藤本健二氏は別にこの名で出てくるので、本当に別人か、藤本氏とわからないように別人にしているのか、別人だとしたら噂通り○暴関係の人か? 2016年2月の熊本地震を心配した正男への返礼としてA氏が送ったせんべいは、パリの叔母にもお裾分けしたらしい。こうした、正男−敬姫関係は、正雲をいらだたせた可能性もある。

 この事件は、マレーシア警察の初動ミスがあったために逆に明らかになったという。つまり警察がパスポートの最後の“Korea”だけを見て、まず韓国大使館に連絡したこと、それによって暗殺された者が”重要人物”だと明らかになってしまったということだそうだ。いずれにしても、事件の捜査、実行犯にされた若い女性の処遇などは、金王朝政府−マレーシア政府の動向に左右され、翻弄されていったこともよくわかる。

 あとの事件の流れは、これまで報道された来たことをまとめたもので、新しいびっくり情報はない。でも、情報が整理されたので、全体の構造がよく見えるようになった。とりわけ、直接の暗殺実行は、キム王朝の組織のものではなく、民間の若い女性を欲と色で釣って、もちろん正男を殺すということは知らせずに、「いたずら」として、でも入念なリハーサルを重ねて実行させるという方法になった。これはその前の、ミャンマーのアウンサン廟における全斗換(チョンドンファン)大統領暗殺未遂(誤爆で大勢の死傷者、1983年10月)、あるいは大韓航空機爆破事件(1987年11月)で、口が堅いはずの実行犯が実行を認めてしまった反省もあるのだと思う。つまり、金王朝の組織内のものは安全に帰国できる条件を作ったということだ。もちろん、そうだからといって帰国後の彼らの安全が保証されるものではないが。

 一番肝心な、指令を出したことがほぼ確実な正雲の考えがどうか。一般的にはこの本にもあるように、正雲の対抗馬、あるいは対抗馬に祭り上げられそうな人を「公開処刑」ということで、反対勢力を萎縮させる目的ということになる。そうだとすると正雲に反対の意思を公にした、正男の息子キム・ハンソルも危ないということになる。なにしろハンソルは「千里馬防衛隊」(韓国系米国人などからなる脱北者支援・反金王朝組織)の保護下にあるようなので。もっとも、この組織にも金王朝のスパイが潜んでいるだろうから、ハンソルの動向は筒抜けの可能性もある。今度の展開は微妙だと思う。

※ 筆者には北からの面談要求もあったそうだが、「身の安全」を考慮して断ったという。第三者的には面談を受けた方がよかったのだが(ミーハー的には面白かった)、現場の雰囲気はそれなりに緊張感があったのだと思います。”拉致”を想定したのでしょう。
 あとあとがきの、「似たようなことは、日本を含む世界中で見られます。」も、たしかにそうだと思う。権力の恣意的な動向に翻弄される庶民。権力にこびへつらって一時的には恩恵を被っても”本流”でなければ、結局は「捨て駒」だと思う。 日本でも、例の籠池夫妻。

 

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目次
プロローグ
 挟み撃ち/相次ぐ異変/容疑は「殺人」
第1章 歴史を変えたマレーシア警察の「ミス」
 別名のパスポート/マレーシア警察の「ミス」/入れ墨のない影武者説/脳や心臓には「異常なし」/ジャケットから検出されたVX/三〇点を超す遺留品/持病の治療薬とバイアグラ
 【資料】金正男司法解剖報告書
第2章 殺害までのカウントダウン
 一年前の告白/一〇カ月前の熊本地震/七カ月前の商談/五カ月前の寄り道/二カ月半前のグルメ旅/三週間前の深酒/二週間半前の遅刻/一週間前の一人旅/事件前日の警戒 【資料】金正男と知人AのSNS交信記録
第3章 アイドルを夢見た実行犯
 芸能界を志す心優しい末っ子/舞い込んだ撮影話/流行りの「いたずら番組」/男たちの素性/演技が完成した一一日前/撮影拠点を海外へ/同じ場所・時間帯で「訓練」/本番に備えて「おめかし」/黄色い液体で「いたずら」の決行/「WiFiありますか?」/警察のカメラに「にっこり」/爪から猛毒を検出
 【資料】ドアン・ティ・フォン供述調書
第4章 工作員を好きだった実行犯
 貧しくも敬けんな一家/友達にも明かさなかった実名/性風俗マッサージ店で住み込み/突然舞い込んだ「もうけ話」/撮影一回で給料四日分/自撮り動画に映り込んだ工作員/いたずら撮影で海外へ/一〇日前からの「本番モード」/空港で「いたずら」の打ち合わせ/わずか一瞬の犯行/「オイル」が放つ臭い/警察から逃げ隠れせず/手落ち捜査で猛毒の出処が不明に
 【資料】シティ・アイシャの供述
第5章 暗躍する北朝鮮工作員
 暗殺の「教育役」の影/悠然と一服して国外脱出/工作員たちの正体/空振りの逮捕/北朝鮮大使館の抵抗/逮捕できたのは「捨て駒」だけ
第6章 遺体をめぐる攻防
 北朝鮮大使の「要求」/マレーシアの反撃/四八時間以内の国外退去処分/事実上の「人質」一一人/遺体も容疑者も北朝鮮へ/マレーシア政府に裏切られた遺族
第7章 黒幕不在の裁判
 殺到する報道陣/「私は利用された」/死刑の可能性/突然の起訴取り下げ/消えない罪の重圧/事実上の釈放/あきらめきれぬ夢
第8章 残された謎
 なぜマレーシアだったのか/どこから動向が漏れたのか/なぜ実行犯を殺さなかったのか/なぜ素人を使ったのか/なぜ殺されたのか/最期に何をしようとしたのか
あとがき

2020年2月記

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