柄谷行人浅田彰全対話

柄谷行人浅田彰全対話 講談社文芸文庫 ISBN978-4-06-517527-9 2019年10月
 多くの人たちから、とくに若い人たちからは蛇蝎のごとく嫌われている団塊の世代、柄谷行人(1941年〜)はその中にあって、「彼らには不思議なバイタリティがある。」とかばってくれる(?)数少ない人。
 一方浅田彰(1957年〜)は団塊の世代を評して、「ちょっと頭が悪い。大学で勉強しなかったから。」とまったく反論の余地がないくらい正鵠を射た評価をしている人。この二人が一緒に雑誌の編集をしていた1987年〜1998年の間の対話。

 知識人たちが、互いにどういう会話をしているかを垣間見ることができる。出てくる用語や人物も知らないものが多く、意味がわからないことがたくさんある。難しい話をしているんだなぁと思った。
 それでも現在(といっても当時)は南北問題は先進国の中で内在するようになったとか、マルクスの「資本論は」はそもそも世界資本主義論だ(柄谷行人が附論をつけた本の題名が「共産”主義者”宣言」になっている理由)などはわかる。

 何回もやり玉に挙げられている吉本隆明については、自分自身はもとから興味がなかった人なので、どうでもいい感じ。

 「昭和の終焉」では、天皇制や天皇(昭和天皇)についても自由に語っている。現在の知識人たち(二人が過去の知識人というわけではない)はこうしたことができるだろうか。平成〜令和にかけての雰囲気は、昭和の終わりの陰鬱とした状況(自粛ムード)から一転、表面は明るかった(祝賀ムード)がじつはもっと重苦しくなっていると思った。

 もう20年以上前の対話なので、彼らの未来予測が当たっているかというミーハー的な興味もあった。少し日本の力を過大評価、中国の力を過小評価していたという面もあるが、現在に繋がるアメリカを中心とした電子産業(IT企業)の評価、日本でいえば“子供文化”(アニメなど)の世界への浸透などはそのまま当たっていると思う。

目次
オリエンタリズムとアジア
昭和の終焉に
冷戦の終焉に
「ホンネ」の共同体を超えて
歴史の終焉の終焉
再びマルクスの可能性の中心を問う
 浅田彰と私(柄谷行人)

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2019年11月記

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