犬を愛した男

犬を愛した男 レオナルド・パドゥーラ 寺尾隆吉訳 水声社 ISBN978-4-8010-0269-2 4,000円 2019年4月

 これはフィクション(筆者はキューバ在住のキューバ人)である。だが、どうしてもノンフィクションとして読んでしまう。600ページ超の大作である。

 主な登場人物は三人、一人は挫折したキューバの(もと)作家イバン、もう一人はレフ・ダヴィドヴィチ(トロツキー)、最後の一人はジャック・モルナル(ラモン・パーヴロヴィチ、トロツキー暗殺の実行者)。三人の共通点は「犬を愛した男」。

 獣医学関係の雑誌の校正と闇獣医としてかろうじて生計を立てているイバンが散歩中に、立派なボルゾイ2匹を連れて歩いていた謎めいた男と出会い、そのうち彼の話を聞くようになる。もちろん正体は明かさないが、トロツキー暗殺の実行者だということはだんだん明らかになってくる。

 スペイン内戦時代のスペイン共産党から、ソ連のテロリスト(暗殺者)としてスカウトされ訓練されていくラモン、ソ連を追われ亡命を受け入れてくれた国もスターリンによって圧迫され、最終的にメキシコに流れ着くトロツキー、そして作家としての道を事実上断たれ、ソ連崩壊後の経済的困難の時代に翻弄されるイバンと三人の話が絡みながら進んでいく。

 ラモンがトロツキーの女性秘書を籠絡して(色仕掛けで騙して)、じょじょにトロツキーとの距離を縮めていくところは、結果はわかっているが緊張する。そしてあの、アイスピッケルのでの一撃。ほんの少し脳髄から外れたおかげで即死しなかったトロツキー、その彼の「そいつを殺すな」の一言でその場で殺されなかったラモン。

 トロツキーが暗殺された1940年の前年は、独ソ不可侵条約が結ばれた年。つまり、ヨーロッパの分割をヒトラーとスターリンが合意した年であり、実際に1940年にポーランドは国ごと分割されている。もう、仮想敵最大の頭目トロツキーを生かしておく必要がなくなったのだ。

 ラモンはソ連(スターリン)の指示だったということは最後までいわず、刑としては20年(死刑のないメキシコでの最高刑)の判決を受ける。そして、満期終了後、東欧を経てソ連に入国する。その後は外界との接触を禁じられた軟禁生活か、場合によっては殺されたかと思っていた。

 だが、実際は1960年に帰国して(この本ではキューバから船)、最高栄誉であるレーニン勲章をもらい、それなりの生活が保証されていたようだ。つまり、トロツキー暗殺はソ連が自分たちの行為だったと認めたことになる。もっとも、帰国した1960年にはすでにスターリンはなく、スターリンに忠実だった当時の上司たちも失脚して、一時の投獄を経てそのころはかろうじて惨めな生活を送っている状態だった。

 1970年代以降、ラモンはどういう経緯だか不明な点も多いが、キューバに移住して(とうぜんトロツキー暗殺については何もしゃべらないという条件だったのだろう)、この小説につながっていくことになる。

 この本は、筆者が契約しているスペインの出版社からの出版が2009年、キューバでの流通が2011年以降だという。2008年にカストロ(兄)が引退、2016年死去、2018年弟のカストロも引退ということなので、この本を書いていた当時はまだトロツキーのことを書くことはもちろん、さらにはトロツキーやスターリン(の悪行)の資料を集めることですらままならない、ままならないどころか危険な時代だっただろう。

 思えば学生のころ、代々木中央を批判する者たちを日本共産党(と青年組織の民青)はトロツキスト(トロ)と呼んでいた。それが、最大の侮蔑的表現だったようだ。トロツキー著作の本はもちろん、トロツキー関連の本など読んだこともない人たちだろうなと思っていた。じっさいに、民青の友人がカミュを読んだだけで“査問”されたといっていた。トロツキーの本など持っていたら大変なことになっていただろう。外から見ると、「禁書」がある組織って何なの、自分の党派の「理論」に自信があるのなら、逆に積極的に反対派の「理論」も読ませた方がいいのではないかと思ってもいた。

 1980年代以降、不破哲三(上田健二郎、当時中央委員会議長)による「トロツキーの一定の評価」があり、それ以後日本共産党は「トロツキスト(トロ)」という言葉は公には使っていないはず。つまり、幹部はトロツキーの著作も読めるらしい。

 では、かつてトロツキーを悪魔的存在と思わされ、その手下のトロツキストとかトロとかいっていた人たちは、それを今どう思っているのだろう。

 

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2019年7月記

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