朝鮮に渡った「日本人妻」

朝鮮に渡った「日本人妻」 林典子 岩波新書 ISBN978-4-00-421782-1 1,040円 2019年6月

 学生だった頃、「日本人妻」帰還運動をしていたのは勝共連合(統一教会)で、あともしかすると当時は政治運動(右派として)を熱心にやっていた生長の家も加わっていたかもしれない。つまり、当時の大学では最右派だった。たぶん、全国の大学でも同じ状況だったと思う。

 もう1960年代半ばから北朝鮮は破綻している(※)ということは、周知の事実だったと思う。なので、なんで北に渡ってしまったのか、いまいち理解できなかった。だが、もちろん「帰国事業」が始まった1959年ころは、日本在住の朝鮮人の生活は苦しい場合が多く、現実的にも当時(1960年)は、北朝鮮の一人当たりGNP137ドルに対し、韓国は79ドル(しかも李承晩独裁政権)、それに「社会主義」の幻想もあり、「祖国北朝鮮」はバラ色に見えた人が多かったに違いない。国交のない北朝鮮との架け橋は人道的見地から動いた赤十字、同時に北に残った日本人の帰国をも担っていた。北朝鮮に幻想を持っていた日本の“左派”はもちろん、“右派”も厄介払いという意識があったのだと思う(この本でもそういう見解もあると出ている)。

 「帰国事業」が始まったとき、新潟の赤十字センターには記念植樹としてモモが植えられたそうだ(現在すでに行方不明)。実がなる頃には(桃栗三年だから3年後?)自由に行き来ができるだろうと。こうした期待もあって、北に「帰国」する夫について行ったのが「日本人妻」(少数の「日本人夫」もいたらしい)、北に「帰国」した総数は93000人、そのうち日本国籍を持っていた人は6800人、その中で「日本人妻」は1830人いたということだ。

 この本ではその「日本人妻」9人、さらに「在留日本人(女性)」1人とインタビューをしている。もちろん、北政府がインタビューを許可している人たちのわけだから、そういう意味も考える必要がある。しかしそれでも、なかなか大変な生活を送ったようだし、語るのもつらい状況もあったようだ。とくにあの大飢饉のころ(190年代半ば)。インタビューできない人たちの中には北政府からも、まわりからも疎んじられた人が多いのに違いない。

 在日の人が北の親族に物・金を送るときのさりげない注意については、映画「月はどっちに出ている」にも描かれていた。日本から送られる物・金が頼り、それだから妬まれるという状況は、「日本人妻」とその家族たちにもあったと思う。しかも、極悪非道なことをした日本人として。
 
  だが、北に渡ってしまったことでもっともつらいのは、当初は3年もたてば日本と自由に行き来できるだろうの判断で、割と気楽に、でも自分の意思で北に渡ってきてしまったことだろう。この本でもインタビュー後の亡くなった人もいる。もう時間はない。

※ 1960年代、労農派といわれていた向坂逸郎の「資本論入門」を読んだことがある。北朝鮮、東ドイツを理想の国・社会としていた。講座派ばかりか労農派もだめだと思った。
 まあ、その後も威勢のいいこといいながら北朝鮮に逃げていった人たちもいた。どういう時代だったのだろう。

目次
プロローグ
第1章 元山で暮らした母と娘――一九六一年,九州から
第2章 緊迫する状況の下で――「火星14」,核実験の年に
第3章 アカシアの思い出――北海道から,お腹の子とともに
第4章 “最後”の残留日本人――家族と生き別れ,朝鮮の子として
第5章 かなわない里帰り――咸興の「日本人妻」たち
あとがき

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2019年6月記

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