図説調布の歴史

図説調布の歴史 調布市 
平成12年(2000年)3月

目次
景観
原始・古代
中世
近世
近代
現代
民俗

 病院での待ち時間の成果。ずっと積ん読だった本です(平成12年3月31日発行)。定価が書いてありませんが、現在でも2,500円で入手可能なようです。 何しろ古い本、しかも当時のゴッドハンドF村氏の影響で、現生人類や日本に人が住むようになった年代がやけに古くなっています。まあ、これはどうでもいいことです。

 この本によって、自宅近くにもまだ気がついていない史跡があること(すでになくなっているものもあるようです)がわかり、訪ねてみようと思いました。 またこのあたりでお盆を8月初めに行う場所もありますが、それは養蚕のためだともわかりました。それまで暴れ川だった野川の改修が、東京オリンピック(1964年)のときに米軍キャンプを受け入れるバーターだったことも知りました。また、京王線の立体化が一時頓挫したこと(1972年に市議会で合意、当時はたぶん高架化)も知りました。

 ちょっと驚いたのは、調布飛行場の横風用滑走路は戦後まもなく関東村(米軍基地)のためになくなったと思っていましたが、少なくとも1989年までははっきりと残っていたことです。こ 国土地理院の航空写真閲覧サービス(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)1989年10月20日撮影と、2005年10月23日撮影とです。この間になくなったようです。1980年前後には、調布市の今のところと違う場所に住んでいて、まだ「場外離着陸場」でしかなかった調布飛行場(の横の広場)にもよく遊びに行っていたのに、横風用の滑走路に気がつきませんでした。

※ 「調布」の由来
「調布」の由来
 なんとなく、律令時代の税、租庸調の調(地域の特産物)としてこのあたりは布(麻)を納めていたのが調布という名の由来と思っていました。布田という地名もあるし。でも、江戸時代の観光案内書「江戸名所図会」(1834年〜36年)を見ると、このあたりは「布田の里」と呼ばれていて、「調布」という地名は出てこないようです。

 この本によると、一番最初に「調布」が出てくるのは「布田郷学校」(1871年創設)が、他の学校(石原学校、国領学校)を合併してできた「調布学校」(1877年)が最初のようです。「調布学校」という名になったということは、漠然とこのあたりを統括した地域が調布といわれていたのだろうとは想像できます。たぶん、多摩川流域で布を生産していたあたり全体を漠然と調布といっていたのではないでしょうか。もとの村から調布という名になっても、地元の人たちには違和感がなかったのだと思います。だから、調布市郷土館の(もと)副館長さんがいうように、布はべつに現在の調布市だけの特産物ではないということだったのでしょう。

 行政単位としては1889年の市町村制施行により、初めて「調布町」ができました。そのとき同時にできた神代村(1952年に神代町)と1955年に合併して調布市になりました。調布町ができるまでは、金子村、柴崎村、佐須村、国領村、下布田村、上布田村、布田小島村、下石原村、上石原村、飛田給村などで、調布という村はありませんでした。

 「厳密な由来は分からない。万葉集を出発点に、浮世絵師ら後世の人々がイメージの世界をバトンタッチしていったのでは」とは、2008年当時調布市郷土館副館長の小野崎満氏で、このあたりが真相かもしれません。

※ 調布銀行
「調布銀行」は1900年に営業開始、1931年に武陽銀行に譲渡されました。以後、武陽銀行は1942年に日本昼夜銀行に買収、1943年に安田銀行と合併、1948年に富士銀行に改称、2002年に第一勧銀と合併してみずほ銀行という流れみたいです。日本昼夜銀行の前身は第五銀行、後継は浅野昼夜銀行らしいです。浅野財閥が経営していたらしいですが、営業不振になり安田財閥に売ったようです。

※ 調布市内の大きな本屋さんで入手可能なようです。

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2018年9月記

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