甘粕正彦 乱心の曠野

甘粕正彦 乱心の曠野 佐野眞一 新潮社
ISBN978-4-10-436904-1 1,900円 2008年5月

目次
序章 “主義者殺し”
第1章 幕末のDNA
第2章 憲兵大尉の嗚咽
第3章 鑑定書は語る
第4章 獄中の臣民
第5章 浴衣の会見記
第6章 暗鬱のルーアン
第7章 謀略人脈
第8章 満州ひとりぼっち
第9章 人は来たりて見よ
第10章 満映という王国
終章 85年目の真実
あとがき
主要参考文献
「甘粕正彦」略年表

 大杉栄と伊藤野枝、さらには大杉の甥(妹あやめの子橘宗一(アメリカ国籍))の3人を殺したとされる甘粕正彦(裁判で宗一殺しは否認)。そして、10年の刑を恩赦により3年弱に縮められ、その後満州で「夜の満州は甘粕が支配する」とおそれられた甘粕正彦。

 佐野眞一は、わずかに残された文書、かろうじて生存している関係者を丁寧に追って、その甘粕の実像に迫ろうとする。450ページを越える大部だが一気に読める。感想はいろいろあるが、とりあえず支離滅裂に書き連ねてみる。

 この本でも、大杉一家殺しの直接犯は甘粕ではないだろう、大勢がなぶり殺しにしたのだろう(死亡鑑定書がそれを強く示している)と推論しているが、たぶん正しい。少なくとも単独犯ではないだろうし、宗一は殺していないだろう。甘粕は軍部の意向を受け、その軍部という組織を守るため個人で責任をとった形となる。これが、後の軍の幹部ですら甘粕をおそれる下地をつくったことになる。

 この本の写真で見る甘粕は、いかにも眼光鋭いという感じで、確かにあの眼でにらまれたら怖いと思う(“主義者殺し”の凄みもあるし)。だが実際にあってみるとなかなかの人物(極めて柔軟で合理的、優れた事務処理能力、でも面倒見もよい、ただし酒乱気味)だったようだ。自殺することなく、戦後も生きていても真実は語りそうにもない。

 刑務所生活は特別待遇と思っていたが、これは一般の受刑者と同じだったようだ。また、出所後の鬱屈したフランス生活は初めて知った。満州ではまず満州国立国の謀略に加わる。

 それにしても、虚構の国の満州と、得体の知れない満鉄(中でも調査部)、さらには甘粕が理事長を務めていた満映は不思議な組織。当時の日本ではまともな市民生活を送れそうにない、怪しげな右翼・(もと)左翼を平気で受け入れそれなりの活躍をさせている。また、こうした人脈が戦後日本でも活躍(暗躍?)する。東映も満映の流れを汲んでいる。

 「われわれは何者か」の地震災害でも少しこの大杉栄事件に触れたが、その記述の変更はしなくてよさそうだ。

 若いころ親族と接点があったことがある。まったくの私の失態を示すだけだったが。

 また、時代錯誤だった私の高校のコンパ・ソング「蒙古放浪歌」がどうしても満州とダブる。この歌は最近ではYouTubeでも聴けるようになった。歌詞やメロディはいろいろなバージョンで少しずつ違うようだが。

蒙古放浪歌

心猛くも 鬼神ならぬ 人と生まれて 情けはあれど
母を見捨てて 波越えてゆく 友よ兄等けいらと いつまた会わん

波の彼方の 蒙古の砂漠 おのこ多恨の 身の捨てどころ
胸に秘めたる 大願あれど 生きて帰らむ 望みはもたじ

砂丘を出て 砂丘に沈む 月の幾夜か 我等が旅路
明日も河辺が 見えずば何処に 水を求めん 蒙古の砂漠

朝日夕日を 馬上に受けて 続く砂漠の 一筋道を
大和男子の 血潮を秘めて 行くや若人 千里の旅路

 甘粕は李香蘭(山口淑子)の数奇な人生ともダブるし。

 以前学校の図書館の仕事をしていたとき、某都立校の図書館の見学に行ったことがある。その司書教諭は、だいたいどのような本でも入れますが、“主義的”は本は入れませんといっていたのが懐かしい。“主義的”なんて死語と思っていたので。

 8月21日(2008年)に日本映画専門チャンネルで「エロス+虐殺」の放映があったので見てみた。とくに新しい視点があるわけではなく、もちろん新しい史実が出てくるわけでもない。たんなる大杉栄−伊藤野枝−神近市子(−堀保子)のどろどろを、ヌーベルバークらしい錯綜したストーリーとハイキーのモノクロ画像で見せるものだった。この映画自身の感想より、この映画が大杉事件(甘粕事件)から46年後の1970年につくられたこと、その映画から今日まで38年もたっていることに感慨を持った。いまから46年前というと、日本が高度経済成長に入ろうとしているころ、わたしもxx歳だったので記憶もかなりあるころということになる。映画ができた1970年の46年前の事件だとすると、大杉栄(事件)をリアルタイムで体験している人もまだ多かっただろうし、実際に当事者だった神近市子(社会党代議士になっていたが1969年に引退)はこの映画に対して訴訟(上映差し止め仮処分の申請→却下される)も起こしている。大杉と野枝の子供、とくに事件で殺された橘宗一と同じ年頃であった魔子(のちに真子、大杉を尾行している刑事にしょっちゅう「パパはいる?」ときかれていたらしい)は生きていたはずである。映画では仮想インタビューを受けていたが、実際この映画に対してはどのような感想を持ったのだろうか。

 いずれにしても絶対的な時間の長さと、それに対する個人の時間意識(不思議な時間の経過とその感覚、私にとっては大杉栄事件は大昔の出来事、でもいまから46年前は自分が体験できたそれほど大昔ではないころ、1970年当時を考えると46年前の大杉事件もそれほど大昔ではない)のギャップがおもしろいと思った。

2008年8月記

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