目次
第1章 海洋文学
第2章 「若宮丸」の漂流
第3章 ペテルベルグ
第4章 世界一周
第5章 長崎
第6章 帰郷
世界一周地図
あとがき
主な日本船漂流年表
参考文献
日本には、同じ島国であるイギリスのような海洋文学がないという一般論に対し、筆者は漂流記を対置する。
大黒屋光太夫のおよそ10年後、1793年に1同じように遭難してロシアに流れ着いた若宮丸の乗組員の話を中心に描く。
16人の乗組員は南進政策をとるロシア政府の手厚い保護を受ける。また、光太夫の仲間でロシアに残った新蔵、庄蔵にも出会う。新蔵は日本語学校(!)の教師となって豊かな生活を送り、一方凍傷で片足を失った庄蔵は新蔵に疎まれながらも一緒に生活をしている。
若宮丸の善六もロシア語を覚え、ギリシャ正教の洗礼を受ける。さらに善六は辰蔵、儀兵衛も誘うが、儀兵衛は拒否する。こうして、善六、辰蔵と、儀兵衛。八三郎、民之助の対立が始まる。ペテルベルグで皇帝に謁見し最後の帰国の意思確認。結局津太夫(59歳)、儀兵衛(42歳)、左兵(41歳)、太十郎(33歳)の4人のみが帰国することになる。
1803年6月に使節レザノフとともに、ロシアのクロンシュタット港を出港。そこに、通訳を期待された善六が乗っていたために、彼と儀兵衛たちの間にに気まずい雰囲気が流れる。船は西回りで日本を目指す(4人は世界一周をした最初日本人となる)。太十郎は好奇心豊かで、寄港した港町に上陸して見聞を広める。
1804年7月にカムチャッカに到着。帰国希望者の怒りを買っていた善六はここで下船する。9月に長崎に着いても、政治的駆け引きが長引き、漂流民の処遇がなかなか決まらない。そうしたなか、儀兵衛が発病、太十郎が自殺未遂。ようやくよく1805年の1月になって帰郷(仙台藩)を許される(日本側への引き渡しは3月)。しかし、太十郎は村に戻った1か月後に死亡、儀兵衛もその年の9月に死亡した。残り二人は1814年津太夫、1829年に左兵が死亡。
結局16人中、途中で病死が3名、残留が9名、帰国したのは4名、しかしそのうち2名は帰郷して間もなく死んでしまったことになる。どちらがよかったのか。
※ 2003年7月31日朝日新聞夕刊に、同じ筆者の「『大正16年』の漂流船」という文が載っている。大正15年(1925年)12月12日、機関故障のために漂流を開始した和歌山県の12人乗りの漁船「良栄丸」の話である。3月9日に最初の死者が出て、4月19日には2名を残すのみとなった。結局発見されたのは、10月31日アメリカ・シアトルの沖合であった。もちろん残った2人も死んでいた。
船長は船員に日誌を書かせていた(この2人が最後まで残った)。船長の娘宛の遺書に「オマエノガッコウノソツギョウシキヲミズニ、トッタン(父)ハカエレナクナリマシタ」、息子宛には「トッタンノイフコトヲキキナサイ、オオキクナリテモ、リョウシハデキマセン。ハハノイフコトヲヨクキキナサイ。」とあったという。
日誌の日付は大正16年であるが、大正は15年の12月25日の終わり、同じ日に昭和が始まっていたわけだが、船上ではそのようなことを知るよしもなかったのである。筆者は「陸地からはなれて大海を漂う船に、時間の流れはあっても、現実の時間はない。」と書いている。
2003年8月記