百姓一揆とその作法
保坂 智 吉川弘文館歴史文化ライブラリー137
2002年3月 1,700円 ISBN:642-05537-1
一揆の終焉と百姓一揆(一揆の終焉;百姓一揆とは何か)
近世民衆運動の胎動(一七世紀の諸闘争;直目安と逃散に対する幕府の対応;まぼろしの代表越訴;徒党の成立と定着)
全藩一揆の成立と百姓一揆禁令―百姓一揆の成立(全藩一揆の成立;享保の諸一揆;百姓一揆発令の確立)
百姓一揆の作法論(百姓一揆を組織する;百姓一揆のめざすもの;百姓一揆が獲得したもの)
われわれの世代(私だけ?)の一揆観は、白土三平の漫画によって固定化されてしまっている。圧政に耐えかねた百姓たちがムシロ旗を押し立てて、竹槍(あるいは農器具)で武装し、藩の武装兵と対峙するというものである。うまく要求を受け入れさせても、指導者たちは死罪、もちろん敗北することの方が多く、悲惨な結果に、というものだ。
だが、実態は違うというのがこの本の主張である。実際には武装蜂起ではなく逃散が多かったこと。また、一揆にはある程度の「作法」「マニュアル」があり、それに乗っているかぎりは藩側も違法な行為ではあるが、やむを得ないことであり、まずは訴状を受理して、説諭して解散へもっていくという方法をとる場合が多かったこと。つまり、要求を受け入れることも多かったこと。もちろん、一揆指導者への処罰は過酷だが、それでもいままで考えられたほどではなかったことなどを挙げている。
一揆側も、悪いのは役人で、領主はわれわれ領民を保護すべきという理念で動いた場合が多いという。この本の主張が真実ならば、私の一揆観は変えなくてはならない。
話はずれるが、最後の百姓一揆ともいえる(最初の革命ともいえる)「秩父事件」のさい、大野苗吉は「おーそれながら天朝様に敵対するから、加勢しろ!」とオルグして回ったらしい。白土漫画では、一揆の中核となる村はちょっと態度が曖昧な村に対して、「(一揆に)参加しない村には火を放つ!」と強制的にかり出していた。この本では、一揆を起こすときは機が熟したときで、だいたいその藩の全村の支持があったということも書かれている。つまり、暴力的かり出しの必要はなかったということだ。
2002年7月記